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消しゴムのジンクス②

 一の宮通りの情緒ある風景とは打って変わり、西口のデッキは無機質なガラスとコンクリートに囲まれていた。 空が広く見える分、夜の闇が深く感じられる。


「……随分と、景色が違うんだな。あっち側とは」


俺の独り言に、隣を歩く三橋が「あはは」と小さく笑って応えた。


「そうですよ。こっちはどんどん新しくなってますから。あ、見てください先輩。あのビル、先輩が……お休みしてた間に、あんなに高くなったんですよ」


三橋が指差す先には、建設途中のクレーンが夜空に突き刺さった高層ビルが見えた。 三ヶ月。 俺にとっては、ただ目を開けたら過ぎ去っていた空白。だが、この街も、世界も、隣を歩く彼女も、俺を置いて確実に「先」へ進んでいたのだという事実を突きつけられる。


「……街は勝手に変わるし、ビルも建つ。なのに、俺だけが三ヶ月前の残像を見ているみたいで気分が悪いな。解けない難問をずっと押し付けられている気分だ」


自嘲気味に吐き捨てた言葉。 三橋は足を止め、手すりに背中を預けて俺の方を向いた。 夜風が彼女のスカートを揺らし、都会の明かりがその瞳に複雑な光を落としている。


「難問、いいじゃないですか。先輩、難しい問題ほど燃えるタイプでしょ?」


三橋は楽しそうに、俺の顔を覗き込んできた。


「前の先輩は、もっと……なんていうか、鉄壁? って感じで、私がいじっても『時間の無駄』の一言でシャットアウトされて終わり。でも今は、そうやってちゃんと困った顔をしてくれる。……前も格好良かったですけど、今の、ちょっと余裕のない先輩も、私にとっては目が離せなくて大好きですよ?」


「……。余裕がないのは、ただの未熟だ」


「未熟じゃなくて、伸びしろです! 街が工事中なのと同じ。未完成だから、これから何でも書き込めるじゃないですか」


三橋は一歩、俺との距離を詰めた。 甘い香りが、夜の冷たい空気の中ではっきりと主張を始める。


「前の先輩との思い出を忘れたのは、確かに寂しいですけど……。でも、今の先輩に『はじめまして』の顔をして、また一から振り回せるのは、私だけの特権かなって」


そう言って、彼女は上目遣いで悪戯っぽく微笑んだ。 あざとい。自分の発言がどれだけ相手を撹乱するか、完全に理解した上での振る舞いだ。


「……お前にとっては、俺の記憶喪失さえも都合のいい道具か」


「道具じゃなくて、チャンスです。今のうちに先輩にいっぱい私のことを刻み込んでおけば、記憶が戻った時に『二倍』逃げられなくなるじゃないですか」


三橋は俺のコートの袖を、指先でちょんと引っ張った。


「ねえ、先輩。工事中のビルが完成するまでには、今の私のこと、消しゴムで消せないくらい覚えておいてくださいね?」


その直球すぎる言葉に、俺はまたしても正解を見失う。 西口の広い空の下、俺の「論理」は、彼女の言葉一つで簡単に霧散してしまった。


「……。一つ、聞いていいか」


俺は、袖を引く彼女の手を振り払うこともできず、視線だけを夜景の彼方へと向けたまま問いかけた。


「どうして、そこまで俺なんだ。……今の俺には、お前をそこまで執着させるだけの理由が分からない。記憶がない俺は、お前にとって『かつての誰か』の抜け殻でしかないはずだろ。……他に、もっとマシな奴だっているはずなのに」


論理的に考えれば、記憶喪失という大きな「欠陥」を抱えた男に固執し続けるメリットはない。 だが、三橋は俺の問いを予期していたのか、驚く素振りも見せなかった。


彼女は俺の袖から手を離すと、手すりに背を預け、夜空を仰いでふっと笑った。


「……なんででしょうね。それを今、言葉にして教えるのは……ちょっと、ずるい気がするんです」


「ずるい?」


「はい。だって、今教えちゃったら、先輩はきっと理屈で納得しちゃうでしょ? 『三橋が自分を好きな理由は、過去のこういう積み重ねがあるからだ。なら今の俺もそれに応えるのが妥当だ』……なんて、そうやって自分を納得させるために理由を使っちゃいそうですもん」


三橋は視線を空から俺へと戻した。 その瞳には、いつもの悪戯っぽさではなく、どこか祈るような、静かな光が宿っている。


「私は、理由があるから先輩が好きなんじゃなくて、先輩だから好きなんです。……だから、内緒。今の先輩が、過去の理由なんて一つも知らなくても、それでも私から逃げられなくなった時……その時に、答え合わせしてあげます」


彼女は人差し指を自分の唇に当てて、シーッ、と小さく音を立てた。


「今はまだ、内緒のままのほうが、先輩……私のこと、いっぱい考えてくれるでしょ?」


そう言って、三橋はまたいつものあざとい笑顔に戻った。 答えをはぐらかされた苛立ちよりも、彼女が守ろうとしている「何か」の重さに、俺の喉が小さく鳴った。


「……。本当にお前は、人を煙に巻くのが上手いな」


「ふふ、先輩にだけですよ。……さ、冷えてきちゃったし、今度こそ本当に帰りましょう? 改札まで、競争です!」


三橋は俺の返事を待たずに、夜のデッキを軽やかに駆け出した。 翻るスカートの裾と、街灯を反射して揺れる髪。その背中が、夜の光の中に溶けてしまいそうなほど鮮やかで、一瞬、胸の奥を掴まれたような感覚に陥る。


俺は重い足取りで、けれど急き立てられるようにその後ろ姿を追いかけた。 計算式も公式も通用しない。彼女が口にした「内緒」という言葉は、俺の頭の中に居座り、どんな消しゴムを使っても消せないほど強烈なノイズとなって響き続けている。


結局、彼女について何も知らないのは、俺の方なのだ。 彼女は俺の失った三ヶ月を知っていて、俺の無意識の癖を知っていて、そして俺に「教えない理由」すら、彼女なりの優しさで守っている。 一方の俺は、彼女がなぜ笑うのかも、なぜあんなに寂しそうな目で俺を見る時があるのかも、その本当の理由は一つも分かっていない。


追いつこうとして歩幅を早めるたび、掌の中にある消しゴムが、コートのポケット越しに微かな熱を伝えてくる。 彼女がつけた「内緒」という名の封印は、記憶を失った俺の空白を、不安ではなく、もっと別の、名前のつかない熱量で埋め尽くそうとしていた。


遠くで振り返り、こちらを向いて手を振る三橋。 その笑顔の「正解」を導き出せるのは、過去の俺ではなく、今の俺でしかないのだと思い知らされながら、俺は冷たい夜風を切り裂いて彼女の元へ駆け寄った。


駅の改札。オレンジ色の照明の下で、三橋は足を止めた。 自動改札機の無機質な電子音が響く中、彼女は自分の定期券を握りしめたまま、くるりと俺の方を振り返る。


「じゃあ、先輩。私はこっちなので」


「……ああ。じゃあな」


ようやく一人になれる。そう思って軽く手を挙げ、背を向けようとしたその時だった。


「あ、そうだ。最後に一つ、忘れ物です」


「忘れ物? お前、さっきのカフェに——」


言いかけた言葉は、ふわりと漂った甘い香りに遮られた。 三橋がぐいっと俺の胸元に踏み込んできたかと思うと、柔らかな感触が、俺の右の頬を微かに、けれど確かな熱を持って押さえた。


「……っ!?」


一瞬、思考が真っ白にショートした。 頬に残る柔らかな感触と、耳元で聞こえた衣擦れの音。 驚いて固まる俺から一歩分だけ距離を取り、三橋は悪戯っぽく、それでいてどこか慈しむような目で見つめてきた。


「……お前、何を……」


「今日の先輩、なんだかずっと遠くを見てて……。今にも、自分から消えていっちゃいそうなくらい思い詰めた顔してたから。……それ、私からの『おまじない』です」


三橋は唇に指を当てて、少しだけ困ったように眉を下げて笑う。


「難問を解くのもいいですけど、あんまり眉間にシワ寄せないでくださいね? せっかくの格好いい顔が台無しですよ」


「……そんなのは、お前には関係ないだろ」


動揺を隠すためにぶっきらぼうな声を絞り出す。だが、頬に残った熱は心臓の鼓動を早め、冷静な判断をこれでもかと阻害してくる。


「関係、大ありです! 私の好きな先輩なんですから」


三橋は今度こそ満足したように、定期券を改札にかざした。 ピッ、という軽快な音が、俺たちの境界線を引くように響く。


「おやすみなさい、千冬先輩。……今夜、お家でちゃんと復習しておいてくださいね?」


三橋は人混みの中へ消えていく間際、最後にもう一度だけ振り返って、最高の笑顔で手を振った


一人残された改札前。 俺は無意識に、彼女が触れた頬を掌で押さえていた。 指先から伝わる自分の肌の温度が、いつもより明らかに高い。


(……不公平だろ、こんなの)


彼女は俺の過去を知っていて、俺の癖を知っていて、その上で、俺が一番弱いタイミングで一番ずるい言葉を投げかけてくる。 対する俺は、彼女が去り際に見せた一瞬の、あの泣きそうなほど綺麗な笑顔の理由さえ、推測することしかできない。


俺が信じてきた、不純物のない論理だけの世界。 それが、たった一箇所、彼女に触れられた頬から音を立てて崩れ始めていた。


ふと、今の自分の顔が気になった。 動揺を隠そうと必死だった今の俺の表情は、あいつからは一体どんな風に見えていたんだろう。


(……いや。もう、どうでもいいか)


どんな顔をしていようが、俺の心臓がこれほど暴力的に脈打っているという事実以上に確かな「正解」なんて、どこにもないのだから。


ポケットの中で、角の丸まった消しゴムをもう一度だけ転がす。 どんなに消そうとしても消えない熱が、俺の計算を、そして俺という人間そのものを、少しずつ、けれど決定的に狂わせていく。


夜の大宮駅。 流れていく人混みの中、俺は一人、答えの出ない熱を抱えたまま立ち尽くしていた。

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