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消しゴムのジンクス①

 放課後。駅前から氷川参道へと続く「一の宮通り」。 その一角にある、少し年季の入ったカフェ。ジャズが静かに流れる店内は、学校の喧騒や図書室の張り詰めた空気から俺を切り離してくれる。


俺は教科書を開き、いつものように数式の海へ潜り込んでいた。 今の俺にとって、勉強は「唯一の証明」だ。三ヶ月の空白——自分の過去が抜け落ちているという事実は、ふとした瞬間に、足元の地面が消えてしまったような眩暈を俺に与える。けれど、目の前の公式を解けば必ず一つの解に辿り着く。その無機質な確かさだけが、俺を現実に繋ぎ止めていた。


コーヒーを一口飲み、ペンケースから消しゴムを取り出す。 使い古されて角が丸くなった、どこにでもあるプラスチック消しゴム。


(……効率が悪いな)


残りはもう、三分の一もない。 新しいものを買えば済む話だが、なぜか俺の手はこの小さな塊を捨てられずにいた。 記憶を失った三ヶ月前からの「残り香」のようなものが、この使い古された道具にこびりついている気がして。理屈では説明できない執着が、自分の欠落を余計に強調しているようで、少しだけ胸がざわついた。


「……先輩、その消しゴム、まだ大事に使ってるんですね」


不意に、カップの縁が鳴る音とともに、対面に座る彼女が口を開いた。 学校を出て、なかば強引に「コーヒー一杯だけ!」と連れてこられたカフェ。三橋は、たっぷりのホイップが乗ったココアを混ぜながら、俺の消しゴムをじっと見つめていた。


「……別に、大事にしてるわけじゃない。ただ、まだ使えるのに新しいの買うのも無駄だろ」


「ふふ、出た。相変わらず。……でも先輩、そのジンクス、知らないのかなって思って」


三橋はテーブル越しに身を乗り出し、いたずらっぽく囁いた。


「『消しゴムを誰にも触らせずに使い切ったら、カバーの内側に書いた名前の人と両想いになれる』。……ここらへんじゃ、結構有名なジンクスですよ?」


「……っ」


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 俺は反射的に、机の上の消しゴムを掌で覆い隠した。 そんな迷信、普段の俺なら「根拠なさすぎ」と一蹴するはずだ。だが、今の俺には、この消しゴムを使い始めた三ヶ月前までの記憶がない。


「……馬鹿馬鹿しい。そんな子供騙しの迷信、本気で信じてる奴なんていないだろ」


「じゃあ、ちょっと見せてくださいよ。中、何も書いてないんですよね?」


三橋が白くて細い指を伸ばしてくる。 俺は思わず、彼女の手を振り払うように消しゴムを握りしめた。


「……断る。これは俺の私物だ。お前に見せる必要はない」


「あ、怪しい! 必死に隠すってことは、やっぱり何か書いてあるんじゃないですか? もしかして……私の名前だったりして」


「自意識過剰だ。お前の名前なんて、記憶にないどころか、わざわざ書く理由が見当たらない」


「ひどいなぁ。……でも、先輩」


三橋はふっと表情を和らげ、少しだけ寂しそうな、でも確信に満ちた目で俺を見つめた。


「先輩、その消しゴム、右の角だけ極端に減ってます。……昔、私が『先輩は左利きなんですから、あえて右から使ってください。その方が格好いいですよ』って、デタラメ言ったの……今も守ってくれてるんですね」


「……っ、それは……」


言葉が詰まる。 記憶にはない。だが、確かに俺の消しゴムは、俺の利き手とは逆の、右側から不自然に削り取られていた。 知識としての「正解」は俺の脳にあるが、この消しゴムの「削り方」という正解は、俺の知らない彼女との時間に刻まれている。


(……いや、待て)


動揺を隠そうと、手元にあった消しゴムを無意識に紙の上へ滑らせる。 その瞬間、自分の指先が、迷うことなく「右側の角」を紙に押し当てたことに気づいて、背筋が凍った。


三ヶ月の空白。 頭では何も覚えていないのに、俺の体は、彼女に「格好いい」と言われたそのデタラメなルールを、今も忠実に実行し続けている。


「……たまたまだろ。持ち方の癖でそうなっただけだ」


「嘘。先輩、動揺するとすぐそうやって『癖』とか言って誤魔化すんですから。……まあ、いいですよ」


三橋はそう言うと、テーブル越しにさらに身を乗り出してきた。 あまりの距離の近さに、ココアの甘い香りと彼女の体温が混ざり合って、俺の思考回路をかき乱す。


「じゃあ、本当に何も書いてないか、今ここで私と一緒に確認しませんか?」


「……っ、だから、お前に見せる必要はないと言ってるだろ」


「えー、冷たいなあ。もしかして、私の名前が書いてあるのがバレるのが、そんなに恥ずかしいんですか?」


彼女は俺の掌の上にある消しゴムを覗き込もうと、顔を左右に振って視線を潜り込ませてくる。 俺が逃げるように手を引くと、彼女はわざとらしく眉を下げて、潤んだ瞳で俺を見上げた。


「……あ、わかりました。本当は私の名前じゃなくて、別の可愛い女の子の名前が書いてあるから、私に見せられないんですね? 先輩、私の知らない間に浮気してたんだ……ショックです」


「……浮気も何も、今の俺とお前はそういう関係じゃないだろ。……おい、そんな顔をするな」


周囲の客が「なんだ、痴話喧嘩か?」と言わんばかりに視線を向けてくる。 論理的に否定しようにも、彼女の「悲劇のヒロイン」の演技が完璧すぎて、俺の言葉は虚しく空を切るだけだ。


「……わかった、わかったから。そんな大きな声を出すな」


「じゃあ、……一つだけ、私のわがまま聞いてくれますか?」


三橋はパッと表情を明るく変えた。その切り替えの早さに、俺は自分が完全に彼女の掌の上で転がされていることを痛感する。


「……なんだ」


「その消しゴム、最後まで使い切ったら……。一番最初に、私に報告してください。そしたら、ケースの裏に何が書いてあっても、私が『正解』にしてあげますから」


彼女はそう言って、俺の拳の甲に指先で小さく触れた。


「そのジンクス、実は続きがあるんですよ。……もし使い切る前に誰かに触られちゃったら、その消しゴム、もうその人との縁を消すためには使えなくなるんですって」


そう言って彼女は、俺が握りしめていた拳の甲に、指先で熱を刻み込むように小さく触れた。


「……あ、私、触っちゃいました。これでもう、先輩がどれだけゴシゴシ消そうとしても、私のことだけは消せなくなっちゃいましたね?」


……なんだ、そのめちゃくちゃなルールは。 そんなのジンクスの後付けだし、そもそも論理の飛躍も甚だしい。 反論しようと口を開きかけたが、彼女のどこか自信に満ちた視線と、指先から伝わる微かな熱に、言葉が喉の奥で渋滞を起こす。


消しゴムは「消す」ための道具だ。 なのに、今の俺には、彼女が言ったそのデタラメな理屈を否定するだけの「正しい言葉」が見つからなかった。


あざとく首を傾げて、勝ち誇ったように笑う彼女。その瞳を真っ直ぐに見返すことができず、俺はただ、熱を持った自分の拳を強く握り直すことしかできなかった。



カフェのドアに吊るされたカウベルが、背後でカランと乾いた音を立てた。 外の空気は、店内のジャズやコーヒーの香りよりもずっと冷たく、火照った頬を容赦なく撫でる。


隣を歩く三橋の足取りは軽く、時折ハミングさえ聞こえてきそうだ。対して俺は、ポケットの中で消しゴムを握りしめたまま、その感触だけに神経を尖らせていた。 指先に触れる、すり減った右側の角。 無意識にそこを使ってしまったという事実が、頭で理解している「今の自分」と、身体が覚えている「過去の自分」の境界を曖昧にしていく。


(……落ち着け。ただの身体的記憶の残滓だ)


このまま彼女と一緒に電車に乗れば、また調子を狂わされる。駅の改札が近づくにつれ、俺の脳内では「最短ルートで彼女を撒くための理屈」が高速で組み立てられていった。


「……三橋。じゃあな。俺は少し西口の方まで寄り道してから帰る。お前は先、帰っていいぞ」


改札の手前で、俺は足を止めて一方的に告げた。 一人で歩けば、この不確かな感覚も消えるはずだ。そう判断して背を向けようとした俺に、三橋は不思議そうに小首を傾げた。


「西口ですか? 塾とか、何か用事でもあるんですか?」


「いや。……少し、頭を冷やしたいだけだ。このまま帰る気分じゃない」


「……あはは、なんですかそれ。相変わらず余裕ないですね、先輩」


「余裕がないんじゃなくて、これは調整だ。……とにかく、そういうわけだ。ここで解散だぞ」


突き放すように言って、俺は西口へと続く連絡通路へ向かった。 だが、背後から聞こえる軽やかな足音は、俺の目論見を無慈悲に打ち砕く。


「ちょうどよかったです! 私も今、そんな気分でした。私もそのお散歩、付き合いますよ」


「……お前に付き合えとは言ってない」


「いいじゃないですか。ほら、行きましょう、先輩!」


「……だから付き合えとは言ってない。一人で歩かせろ」


半ば本気で突き放したつもりだった。だが三橋は、まるで見えない尻尾でも振っているかのような足取りで俺の前に回り込むと、歩きながら器用に身体を反転させて、俺の顔を覗き込んできた。


「ひどいなぁ、先輩。一人で寂しく頭を冷やしてる間に、先輩が風邪でも引いたら私のせいになっちゃうじゃないですか。……だから、私が『湯たんぽ』代わりになってあげます」


三橋はそう言って、上目遣いで首をちょこんと傾げる。街灯の光を反射させた瞳が、獲物を捕らえた猫のように潤んで見えた。


「……意味が分からない。そもそも、人間が湯たんぽの代わりになるなんて非科学的だ」


「もう、理屈はいいんですって! ほら、行きましょう?」


三橋は拒絶の言葉を春風のようにさらりと受け流し、当然のような顔で俺の左側を陣取った。 腕が触れそうで触れない、絶妙に意識を乱してくる距離。 結局、一人になるどころか、駅の反対側まで彼女と二人で歩く羽目になる。俺の計算は、今日何度目か分からない「三橋恋羽」という、あまりに「あざとい」イレギュラーによって、またしても完膚なきまでに狂わされた。


大宮駅の連絡通路を通って西口へと向かう。 東口の喧騒や、あの事故の記憶が染み付いた参道側とは正反対の、整然とした都会的な風景。高いビル群の間に広がるペデストリアンデッキに出ると、夜の冷ややかな風が心地よかった。

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