下駄箱のジンクス③
三橋に腕を引かれるまま、階段を下りていく。てっきり校門を抜けて、駅前のカフェかどこかへ「お出かけ」するのかと思っていた。けれど、彼女が足を止めたのは、重厚な木製の扉の前だった。
「……ここか?」
思わず声が漏れる。扉の上には、見慣れた『図書室』のプレート。 放課後の喧騒が嘘のように静まり返った、放課後の、いつもの場所。
「はい、ここです。何ですか、その拍子抜けしたような顔は」
「……いや、出かけるって言うから、もっとこう、外に行くのかと」
「ふふ、先輩らしい。記憶はなくても、私とのデートにはそれなりの期待をしてくれてたんですね?」
三橋はクスクスと肩を揺らすと、いたずらっ子のように人差し指を口元に当てて、音を立てないようにゆっくりと扉を開けた。放課後の図書室は、西日が書架の隙間から差し込み、埃が光の粒のように舞っている。
「今日は三ヶ月分の『復習』ですから。まずはここから始めないと」
彼女は迷いのない足取りで、窓際の奥まった席へと向かう。 そこは二人がけのテーブルが一つだけ、死角になるように置かれている場所だった。俺も何度も利用したことがあるはずなのに、彼女がそこに座るだけで、まるで「彼女のテリトリー」に招き入れられたような、妙な緊張感が走る。
「……ここ、いつも俺が使ってる席か」
「違いますよ、先輩。ここは『私たちの』席です」
三橋は当然のように俺の隣の椅子を引き、座るように促した。仕方なく鞄を置き、俺は明日使う数学の教科書を取り出す。 記憶を失ったとはいえ、積み上げてきた学力までは消えていない。微分積分の公式も、難解な証明問題の解法も、脳内の引き出しには整然と並んでいる。けれど、その整った知識のすぐ隣に、彼女が座っていたという事実だけが、今の俺にはどうしても思い出せない。
「……先輩、そこ。公式の使い方は合ってますけど、計算ミスしてますよ?」
三橋がひょいと横から俺のノートを覗き込み、細い指先で数式の一箇所を指した。 言われて見直すと、確かに単純な繰り上がりを間違えている。
「……分かってる。今直そうと思ってたところだ」
「ふふ、また強がっちゃって。先輩、昔から計算だけはたまにポカしますよね。私が指摘しないと、そのまま赤ペン入れちゃうんだから」
三橋は可笑しそうに目を細めて、俺の消しゴムを勝手に使ってミスを消した。 彼女の動作には一切の迷いがない。
「……お前、俺の計算ミスの傾向まで覚えてるのか。……っていうか、お前、数学得意だったっけ?」
「失礼ですね。私、これでも偏差値なら先輩と数ポイントしか変わらないんですよ? もしかして、私が『可愛いだけの後輩』だと思ってました?」
三橋はそう言うと、自慢げにふふんと鼻を鳴らした。
「残念。実はわざわざ先輩の教室まで質問に行かなくても、数学なんて一人で余裕で解けちゃうんです。……でも、それじゃ先輩の時間を独占できないでしょ? だから、『これ教えてください♡』って分からないふりして、可愛く甘えてたんです。これ、三ヶ月間かけて先輩をハメた、私の『とっておきの攻略作戦』だったんですよ」
さらっと告げられたのは、俺が記憶を失う前の……この三ヶ月間に彼女が仕掛けていた「罠」だった。このあざとい自信も、実は自分と対等以上に渡り合える頭の回転の速さも、すべては俺に近づくための手段に過ぎなかったというのか。
「……お前、俺が忘れてるのをいいことに、嘘ついてるわけじゃないだろうな」
「ひどいなぁ。証拠、見せてあげましょうか? 私がノートの端っこに、先輩がずっと唸ってた発展問題の答え、さらっとメモしてたの……先輩に見つかっちゃったんですよ。それで『……お前、今までどの口で教えてくれって言ってたんだ?』って、引くくらい冷めた目で見られたのが、私たちが急接近したきっかけだったんですから」
三橋は勝ち誇ったように、人差し指をチッチッと横に振った。 記憶の中の引き出しを探っても、そんな光景は出てこない。けれど、彼女が語るエピソードはどれも細部まで具体的で、俺の性格をよく分かっている奴が言いそうなセリフだ。
「先輩が記憶を飛ばしてる間に、もっと本気出しちゃおうかな。そうすれば、これからは私が先輩に勉強を『教えてあげる』口実ができるでしょ?」
「……お前なぁ」
「でも、やっぱりダメです。先輩にはずっと、余裕な顔をして私の前を走っててほしいから」
彼女はそう言って、俺のノートの端に、小さなハートマークを悪戯っぽく書き込んだ。
「数学も、英語も、歴史も。先輩の頭の中にある知識は、何ひとつ消えてない。なのに、その知識の隣で、私が可愛く化けて隣に潜り込んでたことだけ、忘れちゃうなんて。本当に、意地悪ですよね」
教科書の内容は、一字一句思い出せる。 難解な公式も、昨日解いたはずの予習問題の正解も、俺の脳内には整然と並んでいる。 けれど、その知識の隣で、完璧な演技をして俺を翻弄してきた彼女の、あの楽しそうな笑顔だけが、どうしても見つからない。
まるで、完璧に書き込まれた参考書の余白だけが、強い光にさらされて真っ白に飛び散ってしまったかのようだ。 俺は自分のノートに目を落とした。几帳面な筆跡で並ぶ数式のすぐそばに、彼女が書いた小さなハートマーク。それだけが、俺の知らない「過去」から迷い込んできた異物のように、場違いに赤く滲んでいる。
隣に座る彼女の体温はこんなに近くに感じるのに、頭の中のライブラリには、彼女と視線を交わした記録も、冗談を言い合ったログも、一秒たりとも残っていない。 この三ヶ月、俺は確かにここにいて、目の前の彼女と時間を共有していたはずなのに。
「……悪かった。お前がそうやって俺を騙してたことも、一緒に解いた問題も、全部消えてるみたいだ」
俺が視線を落として呟くと、三橋は怒るわけでもなく、ふっと柔らかく目を細めた。 そして、机の上に置いていた俺の左手へ、自分の手をゆっくりと近づけてくる。
「謝ってほしいわけじゃないですよ。ただ、ちょっと悔しいだけです。先輩の完璧な頭の中に、私っていう不確定要素をもう一度、叩き込んであげなきゃいけないんだなって」
白くて細い彼女の指先が、俺の手に触れた。 びくり、と肩が跳ねる。けれど彼女は逃がしてくれない。そのまま滑り込ませるようにして、俺の指の隙間に自分の指を深く、深く噛み合わせていく。
「先輩。私の気持ちは、先輩の記憶がなくてもここに残ってます。私のこの熱さも……何度だって、上書きしてあげますから」
西日が差し込む静かな図書室で、繋がれた手から伝わる鼓動。 教科書にあるどんな正解よりも、今この瞬間に重なった肌の感覚の方が、ずっと確かな事実として俺の中に流れ込んでくる。
「……な。その上書きって、具体的にどうするつもりだ?」
少し気恥ずかしくなって、俺が視線を逸らしながら尋ねると、三橋は待ってましたと言わんばかりにさらに顔を近づけてきた。
「まずは、その堅苦しい『お前』っていう呼び方、禁止にしましょうか。記憶がないからって他人行儀すぎるのは、復習の邪魔になりますから」
彼女は俺の耳元で、甘く、けれどどこか挑発的に囁いた。
「明日からは、ちゃんと名前で呼んでくださいね? もし間違えたら……私からの『特別補習』、覚悟しておいてください」
耳元で囁かれた吐息の甘さに、心臓が跳ねる。 顔が熱い。図書室の西日のせいにするには、あまりにも無理がある。俺はたまらず彼女の視線から逃げるように顔を背け、指先で適当な教科書のページをパラパラと捲った。
「そんなことより……三橋、さん。……お前、自分の勉強はどうなんだよ。俺に構ってて成績落ちても知らないからな」
「あ、照れ隠しで名字に『さん』付けなんて、さらに他人行儀になっちゃった! しかも今の、ちょっと敬語混じりでしたよ? 先輩、余裕なさすぎです」
「……お前な、俺は心配して−−」
「あ、今度は右眉、しっかり上がってますよ? 先輩」
三橋がクスクスと楽しそうに声を弾ませた。 俺が反射的に眉間に手をやると、彼女は勝利を確信したような、あざとい笑みを深める。
「『勉強が心配』なんて、嘘。……本当は、私の距離感にドキドキして、どうにかして話を逸らしたかっただけですよね?」
「…………」
「ふふ、図星だ。……記憶がなくても、先輩のこういう可愛いところ、全然変わってなくて安心しました」
三橋はそう言って、さらに椅子を引いて俺との距離を詰めてきた。 狭い机の下で、彼女の膝が俺の太ももに、迷いなく、けれど柔らかな圧力を持って触れる。
逃げ場はない。 背後には無機質な書架が並び、目の前には、春の夕闇を閉じ込めたような彼女の瞳が、至近距離で俺を捉えて離さない。西日に照らされた図書室は、まるで巨大な琥珀の中に閉じ込められたかのように静まり返っている。聞こえるのは、遠くで響く運動部の掛け声と、耳元で繰り返される自分の暴力的なまでの心臓の鼓動だけだ。
記憶という根拠を失った俺にとって、この熱はあまりにも毒が強すぎる。 理屈では説明のつかない三橋の全肯定と、肌が触れ合うたびに脳内に直接流れ込んでくる甘い麻痺感。 これ以上、この閉ざされた静寂の中に二人きりでいてはいけない。 あざとい笑顔の裏側に潜む、彼女の執念とも呼べるほどの愛着。それに飲み込まれてしまったら、俺は俺という形を保っていられなくなる――そんな、本能的な恐怖に近い警鐘が、頭の中でけたたましく鳴り響いていた。
「……っ、もういい」
俺は椅子を引く音を荒々しく響かせ、逃げるように立ち上がった。 机に並んでいた参考書を、中身を確認する余裕もなく鞄に押し込む。指先が微かに震えているのを、三橋に見られまいと必死に隠しながら。
「……行くぞ。もう閉館時間だ。こんなところに長居しても、勉強の邪魔になるだけだ」
自分でも驚くほど、声が硬く強張っていた。 それが、彼女の攻勢に対する俺の精一杯の防衛だった。
「あ、待ってくださいよー! 逃げるの早すぎです、先輩!」
背後から、全てを見透かしたような楽しげな声が追いかけてくる。 俺は一度も振り返ることなく、図書室の重厚な扉を押し開けた。
背後から付いてくる軽い足音。 静まり返った放課後の廊下を通り、昇降口で靴を履き替える。外に出ると、昼間の熱気を含んだ風が、オレンジ色に染まった校庭を吹き抜けていった。
校門を抜け、駅へと続く緩やかな坂道を並んで歩き始める。 住宅街の静けさの中、二人の影がアスファルトの上に長く伸びていた。
「……それで、結局どうなったんだよ。その、朝から言ってたジンクスは」
歩調を合わせながら、俺は喉元まで出かかっていた疑問を口にした。 三橋は繋いだ手にさらにぎゅっと力を込めて、満足そうに微笑んだ。
「もう、鈍いなぁ。今日一日、ずっと仕掛けてたじゃないですか。朝、下駄箱で私と一番に目が合ったのも、こうして今一緒に駅まで歩いてるのも……全部、私が先輩にかけた『呪い』です」
「呪いって。……ジンクスじゃなかったのか」
「ふふ。ジンクスなんてあやふやな言い方より、呪いの方が、なんだか強そうでしょ? 逃げられない感じがして」
彼女はあざとく首を傾げて、西日に目を細めた。
「下駄箱で最初に目が合った人と、その日一緒に帰れたら、見えない赤い糸が結ばれる……。ね、今の私たちのことみたいでしょ? 先輩がいくら理屈で解こうとしても、この糸はもう解けませんから」
そんな都合のいい話があるわけない。理屈で考えれば、彼女が朝早くから下駄箱で俺を待ち伏せして、そのジンクスを成立させるために一日中立ち回っていただけだ。
「……勝手なこと言うな。俺が思い出せないのをいいことに、強引にこじつけてるだけだろ」
俺は繋がれた手に意識がいかないよう、わざとぶっきらぼうに言い返した。 けれど、彼女の手のひらの熱は、否定すればするほど鮮明に伝わってくる。
「いいんですよ、こじつけでも。先輩が否定する材料を持ってない以上、私の勝ちなんですから」
三橋はそう言って、駅の改札が見えてくるまで、勝ち誇ったような笑みを浮かべて俺の隣を歩いた。 教科書の知識だけは嫌になるほど正確に残っているのに、隣にいる彼女の「デタラメな理屈」ひとつ論破できない。そのことが、ひどく癪で、同時にどこか安心している自分もいた。
「……どうせ明日も、また下駄箱のところでお前が待ち伏せしてるんだろ」
俺が吐き捨てるように言うと、三橋は意外そうに目を丸くした。それから、今日見せてきたどの演技よりも、あざとさなんて微塵もない純粋な笑顔を弾けさせる。
「はい! もちろんです。先輩がどれだけ嫌そうな顔をしても、明日も、明後日も、その次も……先輩が私の顔を『もう十分だ』ってくらい思い出すまで、あそこで一番に捕まえに行きますから。覚悟しておいてくださいね?」
駅のホームに滑り込んできた電車の風が、彼女の髪を激しく揺らす。 結局、三ヶ月の空白を埋める方法なんて、教科書のどこを探しても載っていなかった。
けれど、明日もまた、下駄箱の前で彼女が「おはようございます、先輩」と笑って立っている。 その逃れられない呪いのような予定が、今は不思議と、教科書の次の一ページをめくるよりも、俺の思考を占領していた。




