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下駄箱のジンクス②

階段を上がりきり、三橋の姿が見えなくなっても、右手に残った熱は一向に引く気配がなかった。 自分の教室のドアに手をかけた瞬間、ようやく肺に溜まっていた熱い空気を吐き出す。……廊下を歩くだけでこれほど体力を削られるとは。


教室に入った途端、数秒前までの静寂が嘘のように、騒がしい野次の嵐が俺を飲み込んだ。



 「おいおい。記憶を飛ばしても相変わらず三橋さんに捕まってるみたいだな。朝からごちそうさまだよ、千冬」


教室に入るなり、中学からの腐れ縁である阿久津あくつ 凪冴なぎさ が、ニヤニヤしながら俺の肩を叩いた。周囲の男子たちからも「お熱いねえ」「朝から階段で公開処刑かよ」と野次が飛ぶ。


「茶化すな。……俺、本当にあいつと付き合ってるのか? 正直、あいつのペースが早すぎてついていけないんだが」


俺が溜息をつきながら椅子に座ると、凪冴は意外そうな顔をして俺の前の席に反対向きに座った。


「あー……そうか。お前の中では『はじめまして』に近いんだもんな。でも安心しろ、千冬。お前は何も変わってない。この三ヶ月間、お前はずーっと三橋さんに振り回されっぱなしだったよ」


「振り回される……俺が?」


「正確には、三橋さんがお前を離さなかったんだよ。あの子、学年でも有名な『落とせない女』だっただろ? なのに、冬休み明けくらいからかな。なぜかお前にだけは自分からベタベタくっついて回ってさ。周囲の男を全員蹴散らして、お前の隣を完全に独占してたんだ」


凪冴の話す三橋恋羽は、今朝俺が見た姿そのものだった。でも、何かが違う。


「俺、あいつに何をしたんだ?」


「それが誰もわかんねえんだよ。お前はいつも通り、淡々と勉強教えたり、たまに毒吐いたりしてただけなのに。三橋さんの方が完全にお前にぞっこんでさ。お前が少し他の女子と話しただけで、すぐあざとく割り込んできて『先輩、私との時間は?』って。……正直、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい、お前にだけは重症だったよ」


凪冴は思い出すように天井を仰いだ。


「付き合い始めたのも、あいつからの猛アタックに、お前がついに折れた形だったしな。……でもさ、お前もなんだかんだ言って、あいつの隣にいるときは一番落ち着いてたよ。あいつのあざとさに文句言いながら、結局お前もそこから動こうとしなかっただろ?」


「……」


「でも、事故でその記憶が消えたって聞いたとき、あいつ……三橋さんは、マジで死にそうな顔してた」


凪冴の視線が、少しだけ真剣なものに変わる。


「それでも今日、あんな風に明るくお前を迎えに来たんだ。……あいつ、お前が忘れた三ヶ月分を、自分一人で必死に繋ぎ止めようとしてるんだと思うぞ」


凪冴の言葉が、ひどく重い温度を持って胸に落ちてきた。一人で、繋ぎ止める。今朝のあいつの、あの眩しいほどの笑顔を思い出す。俺を待ち伏せして、からかって、あざとく指を絡めてきたあの態度。あれがもし、欠け落ちてしまった俺の記憶を埋めるための、彼女なりの「必死な強がり」だったとしたら。


……だとしたら、俺はなんて残酷な反応をしたんだろう。『また出所不明のジンクスを』なんて冷めた口調で返して、繋がれた手の熱に戸惑ってばかりで。彼女は、俺が思い出せないでいる幸せな二人の時間を、たった一人で背負って、あんなふうに笑ってみせたのか。


記憶がない、という事実は、俺にとってはただの空白だ。でも彼女にとっては、積み上げてきたはずの愛着や信頼が、一方的に断絶された絶望だったはずだ。なのに彼女は、泣き言ひとつ言わずに俺の前に現れた。「思い出せなくても、体は覚えてるでしょ?」と言いながら俺を射抜いたあの瞳。あれは誘惑なんかじゃなくて、必死の呼びかけだったのかもしれない。 予鈴のチャイムが、思考を遮るように廊下に響き渡る。


「まぁ、ゆっくり思い出せよ、千冬」


凪冴がひらひらと手を振って、自分の席へ戻っていく。授業が始まっても、ノートを開く気にはなれなかった。窓の外から差し込む春の光が、今朝彼女と歩いた階段の景色を鮮明に映し出す。


あいつは、どんな気持ちで俺の右眉が上がるのを見ていたんだろう。


俺がいつものように嘘をつくのを、どれほど待ち侘びていたんだろう。そして、記憶のない俺の指に自分の指を絡めてきたとき、彼女の心臓はどれほど震えていたんだろう。


机の下で、彼女に握られていた右手をそっと開いてみる。指先にはまだ、彼女が守り抜こうとした「三ヶ月の重み」が、消えない熱を持って残っていた。


結局、授業の内容なんてこれっぽっちも頭に入ってこなかった。黒板の文字を追おうとしても、気づけば凪冴に言われた「死にそうな顔をしてた」という言葉が頭の中をぐるぐると回り、視界が滲む。


放課後を告げるチャイムが鳴り、静まり返っていた教室がにわかに騒がしくなる。帰宅部や部活へ急ぐ奴らが席を立つ中、俺は重い腰を上げて鞄を手に取った。


スマホをポケットから取り出すと、通知ランプが点滅している。画面を点けると、そこには案の定、あいつの名前があった。


『先輩、授業お疲れ様です! ちゃんと私のこと考えてました?』


心臓を直接掴まれたような、嫌な、でもどこか甘い感覚が走る。返信を打とうとして、指が止まった。何を言えばいいのか分からない。凪冴から聞いた話をぶつけるべきか、それとも朝のように突き放すべきか。


迷っている間に、画面に新しい通知がポップアップした。メッセージと共に送られてきたのは、一枚の画像。


……あいつだ。どこか人気の少ない実習棟の階段だろうか。三橋が、少しだけ上目遣いにカメラを見つめている自撮り。薄暗い廊下の光のせいで、彼女の白い肌が透けるように見えて、唇が少しだけ尖っている。


さらに心臓に悪いのは、その指先だ。彼女は自分の顎のあたりに人差し指を添えて、朝、俺の手を引いたときのように、ほんの少しだけ挑発的に微笑んでいる。


『返信ないってことは……さては、サボって寝てましたね?』


『今から会いにいっちゃおうかなー♡』


写真の中の彼女は、凪冴が言っていたような「死にそうな顔」なんて微塵も見せていない。相変わらずあざとくて、自信満々で、俺を翻弄することを楽しんでいるように見える。


だが、今の俺にはわかってしまう。この完璧な角度も、挑発的な微笑みも、俺が忘れてしまった「三ヶ月間」を繋ぎ止めるための、必死な防波堤なのだ。 彼女が唇を尖らせるたび、その裏側でどれほどの不安を飲み込んでいるのかを想像して、胃の奥が焼けるように熱くなった。


「……たく、反則だろ、これ」


独り言を漏らしながら、俺はスマートフォンの画面を伏せた。 熱い。ポケット越しに伝わるスマホの熱までが、さっき凪冴に言われた「彼女の必死さ」に思えてきて、俺は逃げるように教室を飛び出した。


会って、確かめるしかない。あざとい笑顔の裏側で、あいつが何を隠して、何を上書きしようとしているのか。


向かう先は、3階。彼女の教室があるフロアだ。朝とは逆に、今度は俺が、彼女の残した熱を追いかける番だった。


3階へ続く階段を上りきった瞬間、空気が変わった。自分の教室があるフロアとは違う、どこかよその家のリビングに土足で踏み込んでしまったような、独特の疎外感。壁に貼られた行事のポスターも、廊下ですれ違う顔ぶれも、俺にとっては馴染みのない「他人の日常」だ。


そんな部外者であるはずの俺を、廊下にたむろする連中は即座に、そして執拗に捉えた。好奇の目ではない。それは明確な「敵意」を含んだ、恨めしげな視線の束だ。    


学年のアイドル、三橋恋羽。  


このフロアの王女と言っても過言ではない彼女を、かつて独占し、あろうことか付き合っておきながら、事故でその記憶だけを都合よく「なかったこと」にした男。


彼らにしてみれば、俺は聖域を汚した挙句に、与えられた至福を忘却という形で投げ出した不遜な侵入者なのだろう。「記憶喪失だってよ」「どの面下げて来たんだ」「代われよ、せめて」 そんな声にならない呪詛が、重苦しい圧力となって俺の肩にのしかかる。記憶を失う前の俺は、毎日こんな針のむしろのような視線の中を、平然と彼女のために歩いていたというのか。


そんな刺すような空気の境界線を、彼女はたった一歩で踏み越えてきた。ちょうど教室から出てきた三橋と目が合う。彼女の瞳が、俺を見つけた瞬間に世界で一番明るい場所のように弾けた。


「あ、先輩! 本当に会いに来てくれたんですね。やっぱり私のこと考えてたんだ」


駆け寄ってくる彼女の足取りは軽く、スカートの裾がふわリと揺れる。その瞬間、廊下のあちこちから「チッ」という明確な舌打ちや、呪文のような恨み言が一段とボリュームを上げた。


「……別に。ちょうど用事があって、通りかかっただけだ」


「ふーん? 用事、ね。3階に先輩の用事なんてありましたっけ?」


彼女は俺の横に並ぶと、わざとらしく覗き込むように顔を近づけてきた。周囲の男子たちの殺気が一段と増す。もはや俺の背中には、数え切れないほどの視線の穴が空いているに違いない。


「そういえば先輩、さっきのLINE。……既読スルーしましたよね?」


「……忙しかったんだよ」


「嘘。右眉、今ちょっと動きましたよ?」


三橋は確信犯的に、俺の腕に自分の細い腕をしっかりと絡めてきた。柔らかい感触が伝わった瞬間、廊下の温度がさらに数度下がった。彼女にとっては何気ない動作なのだろうが、周囲の連中にとっては、俺という「部外者」に彼女が自ら印を付けるような、残酷な儀式に見えているはずだ。


「ねえ、先輩。写真は? 見てくれました?」


「……さあな。記憶にない」


「あ、ひどい! ちゃんと送ったんだから見てるはずです。……どうでした? 可愛かったでしょ?」


三橋の声が、周囲にも聞こえるように一段と甘くなる。俺を困らせたいのか、あるいは周囲に見せつけたいのか。いや、もしかしたら。凪冴が言っていた「必死さ」は、この周囲の視線さえも利用して、俺の中に「彼女の恋人」という立場を無理やり再構築させようとする、あがきの一種なのかもしれない。


「ねえ、感想は? 私、あの写真撮るのに、わざわざ誰もいない階段まで行って、髪型も整え直したんですよ? ちゃんと褒めてくれないと、ここで泣いちゃいますからね?」


上目遣いに俺を捉えるその瞳は、完璧なアイドルスマイル。けれど、繋がれた腕から伝わってくる彼女の熱は、周囲の恨めしげな視線よりもずっと鋭く、俺の心臓を直接揺さぶってきた。


「……別に、普通だった」


「『普通』? えー、嘘だ。絶対もっとドキドキしたはずです。だって、先輩の耳、さっきからちょっと赤いですよ?」


彼女はクスクスと喉を鳴らして笑うと、絡めた腕をさらにギュッと抱きしめ、俺の手の甲に自分の指先を這わせた。


「……三橋。いい加減にしろ、廊下でこんな……」


「やだ。先輩が『放課後、一緒に帰る』って言ってくれるまで、ここから一歩も動きません。……あ、ほら、また誰かが舌打ちしましたよ? このままここで、ずっと見せつけちゃいます?」


彼女は楽しげに、けれどその瞳の奥には「絶対に逃がさない」という執念を宿して俺を見つめる。 周囲の視線はもはや物理的な痛みとなって背中を突き刺している。凪冴が言っていた「死にそうな顔」と、目の前のあざとい笑顔。そのどちらが本物なのか、今の俺には判断がつかない。


ただ、このままだと俺の理性が、彼女の体温か、あるいは周囲の嫉妬か、どちらかに焼き切られてしまうのは明白だった。


「……わかった。わかったから、場所を変えるぞ。」


「えっ、本当に!? やったぁ! じゃあ、今日は私が行きたいところ、全部付き合ってもらいますからね!」


三橋は、周囲の怨嗟なんて最初からこの世に存在しないかのように、パッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。そのまま、俺の手を引いて駆け出す。


背後に残された男子たちの怒濤のような殺気を置き去りにして、俺は彼女に引かれるまま、階段を駆け下りた。繋がれた手のひらから伝わってくる微かな震えのせいで、俺は最後まで、その手を振り払うことができなかった。

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