下駄箱のジンクス①
あの日――氷川参道の並木道で、繋いでいたはずの手が嘘みたいにすり抜けていったあの夜から、俺の時間は止まったままだ。 三ヶ月という空白を抱えたまま迎えた、昨日という日。教室に現れた「三橋恋羽」と名乗る少女の、心臓を無遠慮に叩くような笑顔が、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。
一夜明けた、火曜日の朝。昇降口の喧騒の中、俺は自分の下駄箱を開けるのを躊躇っていた。
『遅刻したら、罰ゲームで私のこと、下の名前で呼んでもらいますね?』
名前すら覚えていない俺に、そんな傲慢な約束を突きつけていった彼女。結局、俺はチャイムが鳴る五分前、もっとも混雑する時間に下駄箱へ向かった。彼女が本当に待っているなら、これだけ人がいれば紛れ込めるはずだ。……そんな浅はかな考えは、彼女の圧倒的な「存在感」を前にして、一瞬で粉砕された。
「――あ! 浅間先輩、おっはよーございますっ!」
人混みを割って、弾けるような声が響く。そこには、朝の光を味方につけた彼女が立っていた。
埃が舞うはずの昇降口が、彼女の周りだけ浄化されたように澄んで見える。緩く巻かれた茶髪が光を透かして、まるで天使の輪のような輝きを放っていた。 登校中の男子生徒たちが、吸い寄せられるように足を止め、無意識に彼女を遠巻きに囲んでいる。誰もがその圧倒的な美しさに気圧され、声をかけることすらできずに見惚れていた。
そんな喧騒の中心で、彼女は昨日よりもさらにあざとい、完璧な笑顔を俺だけに向けた。 少しだけ短く詰められたスカートの裾から伸びる、眩しいほどに白い脚。彼女が小さく手を振るたびに、周囲の男子たちの喉が鳴る音が聞こえてきそうなほど、その場は彼女一人の独壇場と化していた。
「……本当に、ここで待ってたのか」
「昨日約束しましたもん。……ほら、今はまだセーフ。ギリギリ遅刻してませんね?」
彼女は自分のスマホを俺の顔のすぐ近くまで突き出してきた。 画面に映し出されていたのは、どこかの夜景……いや、オレンジ色の街灯に照らされた、どこまでも続く並木道の写真だった。
氷川参道。
その中央には、二人の影が長く伸びている。一人は彼女だろう。そしてもう一人は、彼女と指を絡ませて歩く、俺によく似た誰かの影。 あの日、俺が失ったはずの「三ヶ月」の断片が、彼女のスマホの中でだけ、鮮やかな色彩を保ったまま息づいていた。
一瞬だけ、胃の奥がキュッと締め付けられるような感覚に陥る。
「……その背景」
「ふふ、お気に入りなんです。……あ、でも、先輩にはまだ内緒でしたっけ?」
彼女はいたずらっぽく微笑むと、手際よく画面を暗転させた。 ふわり、と昨日よりもさらに近くで甘い香りが弾ける。それは春の訪れを告げる花のようでもあり、俺の理性をじわじわと削っていく猛毒のようでもあった。
「ねえ、先輩。知ってます? 下駄箱の前で最初に目が合った人とその日に一緒に帰れたら、その二人には、見えない赤い糸が結ばれるんですって」
「……そんな、出所不明のジンクスを。朝から景気がいいな」
呆れながらもそう口にした瞬間、ふと奇妙な感覚に襲われた。 このやり取り、どこかで。確かな映像としては思い出せない。けれど、言葉が喉を通る感覚や、彼女の反応を予測している自分が、脳の片隅にこびりついている。
「いいんですよ。誰が決めたか分からないからこそ、私が勝手に上書きしちゃえば、それが正解になるんです」
彼女はそう言って、俺の顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「先輩も、変な噂とか信じるより、私の言うこと信じてたほうが絶対幸せになれますよ?」
返事を待たずに、彼女は俺の靴箱から上履きを取り出し、校内のタイルに膝をつくことも厭わず、跪いて俺の足元に置いた。 まるでお姫様に仕える執事か、あるいは……。
「おい、何して――」
「ふふ、お迎えにあがりました、浅間王子様! 逆バージョンですけどっ」
周囲の男子たちが息を呑み、突き刺さるような視線が痛い。記憶喪失だと言っている相手に、どうしてここまで献身的になれるのか。俺が戸惑いながら上履きに履き替えると、彼女は立ち上がり、俺のシャツの襟を整えるように指先を滑らせた。
至近距離。長い睫毛の隙間から、彼女の潤んだ瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「……先輩。昨日の夜、私のこと、少しは考えてくれました?」
一瞬だけ、あざとい笑顔がふっと消えた。その瞳の奥に、昨日も見せた「今にも壊れそうな不安」が透けて見える。
俺は言葉に詰まった。さっき見せられたスマホの影が、どうしても頭から離れない。記憶にはないはずなのに、目の前の彼女と見つめ合っていると、右腕のあたりがじりじりと熱くなっていく。
「……。予習が忙しくて、それどころじゃなかった」
「もう! 嘘つくときは、右眉が少し上がるんですよ、先輩?」
彼女は呆れたように肩をすくめると、悪戯っぽく口角を上げた。
「そんな嘘つきな先輩には、こうです」
言うが早いか、彼女は俺の右手を両手で包み込むようにして持ち上げた。そのまま、躊躇うことなく自分の細い指を、俺の指の隙間へと滑り込ませる。
「……三橋?」
「ふふ、こうして繋いでれば、先輩がドキドキしてるの全部私に伝わっちゃいますよ? これでもう、隠し事はできませんね」
指と指が深く噛み合い、互いの体温がダイレクトに伝わる。 繋がれた場所から、心臓の鼓動がうるさいほどに響いていく。 それが俺のものなのか、それとも彼女のものなのか。判別がつかないまま、俺たちは繋いだ手を離すことなく、ゆっくりと階段を上がり始めた。
すれ違う生徒たちが、ぎょっとしてこちらを二度見していく。 登校中の喧騒の中、俺たちの周りだけが、甘い毒を含んだ特別な空気で満たされている。
「……おい。みんな見てるぞ」
「いいんですよ、見せつけちゃえば。……それとも、先輩。私の手、解きたいですか?」
そう言って彼女は、絡めた指をさらにぎゅっと握りしめてきた。 正直、居心地は最悪だ。好奇の視線が刺さるし、何より記憶にない女子とこんな風に歩くなんて、普通ならすぐに手を振り払っているはずだ。
なのに、なぜか解くことができない。指先から伝わってくる彼女の熱が、まるでそこだけが俺の知っている世界の居場所であるかのように錯覚させて、どうしても自分から離すことができなかった。
1階から2階へ。たったそれだけの距離を、俺たちは一言も発さずに、ただ繋がれた熱だけを頼りに上がっていく。俺の教室がある2階の廊下に差し掛かり、ついに予鈴のチャイムが校舎に響き渡った。
「あ、やば。予鈴鳴っちゃいましたね」
2階の踊り場で、彼女はようやく立ち止まった。
名残惜しそうに、でもわざとゆっくりと、一本ずつ指を解いていく。最後まで残った親指の先が、俺の掌をくすぐるように滑り落ちた。
「じゃあ先輩、続きは放課後。……私のこと、授業中もずっと考えなきゃダメですよ?」
彼女は自分の左胸に手を当て、少しだけ頬を染めて俺を見つめる。
「さっきのドキドキ……先輩のせいなんだから、ちゃんと責任取ってくださいね?」
あざとい笑顔に、ほんの少しの本心を混ぜて。 彼女はそのまま、さらに上の3階へと軽やかな足取りで消えていった。
残されたのは、春の陽だまりのような暖かさと、右手にしつこく残ったあどけない熱。
……あいつの、1年生の教室は3階だ。俺の教室は2階。わざわざ朝早くに1階の下駄箱で俺を待ち伏せして、2階の教室前まで送って、あんな無茶苦茶な体温を押し付けていったのか。
「……責任って、なんだよ」
独り言が、誰もいなくなった廊下に虚しく響く。自分の教室へ向かう足取りは、いつの間にか、彼女が去った3階へと続く階段を少しだけ意識するように重くなっていた。




