表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

プロローグ

 冬の夜の空気は、鋭いガラスの破片に似ている。吸い込むたびに肺の奥がツンと冷えて、繋いだ手のひらの熱だけが、自分が生きている確かな証拠のように思えた。

氷川参道、二の鳥居。街灯のオレンジ色に照らされたケヤキの並木道は、どこまでも続く光のトンネルみたいだ。


「ねえ、先輩。知ってます? この参道を一の鳥居まで、一度も手を離さずに歩ききれたら――」


遠慮を知らない手がコートの袖をぐいっと引いた。彼女の白いマフラーに埋まった顔がいたずらっぽく上向く。


「……一生、一緒にいられるんですって。素敵だと思いません?」


「またそんな、出所不明のジンクスを……」


「いいんですよ、そんなの。誰が決めたかよりも、私達が信じるかのほうが大事です。……ね、絶対離さないでくださいね?」


彼女は俺の指の間に、自分の細い指を深く滑り込ませた。いわゆる、恋人繋ぎ。 照れ隠しに前を向いたまま、逃げられないように、その小さな手を強く握り返した。


あの日、俺たちは確かに、世界で一番幸せな二キロを歩いていたはずだった。


参道を抜け、新都心の駅前へと差し掛かった時だ。凍りついた路面。不自然に膨らんだ、ヘッドライトの白光。鼓膜を突き破るようなブレーキの絶叫が、夜の静寂を切り裂いた。


「あ――」


短い悲鳴。直後、体中に走った衝撃は、熱いというよりむしろ、骨の芯まで凍りつくほどに冷たかった。体が宙に浮き、視界がめちゃくちゃに回転する。一番に感じたのは、痛みじゃなかった。さっきまで確かにそこにあった、右手の熱が――恋羽の指先の感触が、嘘みたいにすり抜けていった絶望だ。


アスファルトに叩きつけられた俺の視界の端で、誰かが泣き叫びながら俺の名前を呼んでいる。


……待てよ。離さないって、約束しただろ。    


動かない右手を必死に伸ばそうとして、俺の意識は深い雪の底に沈むように、真っ暗に塗りつぶされた。


次に目を覚ました時、俺の世界からは「冬の三ヶ月間」が消えていた。



三ヶ月後。季節は春へと向かっているはずなのに、俺の感覚だけは、あの日以来ずっと「千の冬」の中に閉じ込められたままだ。


放課後の教室。窓の外から聞こえる野球部の声も、吹奏楽部の音色も、今の俺にはひどく遠く感じる。


「失礼しまーすっ」


その瞬間、教室の空気が、澄んだ鈴の音を鳴らしたように一変した。無駄話に興じていた男子連中が言葉を失い、スマホをいじっていた女子たちが一斉に顔を上げる。入り口に立っていたのは、一人の女の子だった。


緩く巻かれた茶色の髪が、午後の柔らかな光を透かしてきらきらと輝いている。モデルのような整った顔立ち。それでいて、小動物のような愛くるしさを感じさせる大きな瞳。短すぎるスカートから伸びる脚は驚くほど細く、彼女が歩を進めるたびに、教室中に甘い石鹸のような香りが広がっていく。


高嶺の花――いや、そんな言葉では足りない。誰もが遠巻きに眺めることしかできないような、圧倒的な「華」を持った少女。  そんな彼女が、他の誰にも目もくれず、一直線に俺の席へと向かってくる。


椅子を引く音すら憚られるような静寂の中、彼女は俺の机に両手を突き、身を乗り出した。


「――じゃーん! 浅間先輩、お疲れ様ですっ」


計算し尽くされた角度で首を傾げ、真っ直ぐに俺を見つめる。  至近距離で浴びせられる、心臓を無遠慮に叩くような完璧な笑顔。 三ヶ月前の俺は、この笑顔の独占を許されていたらしい。  けれど今の俺は、彼女に近づかれるたびに、自分だけが白紙の台本を渡された舞台に立たされているような、形容しがたい居心地の悪さを感じていた。


「えっと……誰、だっけ」


俺が絞り出した言葉に、彼女の表情が一瞬だけ、まるでひび割れるように強張った。教室の隅で、「また言ったよ、浅間のやつ……」という溜め息が漏れる。


恋羽の潤んだ瞳が、一瞬だけ鋭く痛んだように見えた。    


――けれどそれは、瞬き一つでかき消される。彼女はすぐに、さらに深く、俺の心臓を射抜くような完璧な笑顔を作ってみせた。


「ひどーい! 先輩、一目惚れした私の名前、もう忘れちゃったんですか?」


彼女は迷いなく、俺の右腕に自分の腕をギュッと絡めてきた。  コートを脱いだ制服越しに伝わる、柔らかくて温かな感触。


「……三橋、恋羽みはし こはねです。覚えてくださいね? 先輩を恋に落とすために生まれてきた、運命の後輩の名前です!」


教室中の連中が、痛々しいものを見るような、あるいは彼女の献身さに打たれたような複雑な視線を送っている。けれど彼女は、そんな外野の空気なんて意に介さない。俺の顔を覗き込み、あざとく、花が咲くように笑ってみせる。


俺の記憶のどこを探しても、彼女の姿は見当たらない。

なのに、絡められた右手がかつての熱を思い出したように、ひどく熱く脈打っていた。


「忘れてるなら、何度でも初恋させてあげますから。覚悟しておいてくださいね、千冬先輩?」


そう言って彼女は、俺の腕をぎゅっと抱きしめていた両手を、パッと離した。急激に冷えて、なんだか自分のものではないみたいに心許ない。戸惑う俺の目の前で、彼女はくるりと軽やかに、羽が舞うように踵を返した。


短すぎるスカートの裾がひらりと揺れる。  そのまま教室のドアの前で一度だけ立ち止まると、彼女は悪戯っぽく振り返った。


「明日、下駄箱の前で待ってますから。遅刻したら、罰ゲームで私のこと、下の名前で呼んでもらいますね?」


鮮やかなウインクを残して、今度こそ彼女は、教室から去っていった。


俺の記憶のどこを探しても、彼女の姿は見当たらない。  


なのに。絡められた右腕が、かつての熱を思い出したように、ひどく熱く脈打っていた。


それが、俺と「運命の後輩」との、やり直しのきかない、二度目の恋の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ