プロローグ
冬の夜の空気は、鋭いガラスの破片に似ている。吸い込むたびに肺の奥がツンと冷えて、繋いだ手のひらの熱だけが、自分が生きている確かな証拠のように思えた。
氷川参道、二の鳥居。街灯のオレンジ色に照らされたケヤキの並木道は、どこまでも続く光のトンネルみたいだ。
「ねえ、先輩。知ってます? この参道を一の鳥居まで、一度も手を離さずに歩ききれたら――」
遠慮を知らない手がコートの袖をぐいっと引いた。彼女の白いマフラーに埋まった顔がいたずらっぽく上向く。
「……一生、一緒にいられるんですって。素敵だと思いません?」
「またそんな、出所不明のジンクスを……」
「いいんですよ、そんなの。誰が決めたかよりも、私達が信じるかのほうが大事です。……ね、絶対離さないでくださいね?」
彼女は俺の指の間に、自分の細い指を深く滑り込ませた。いわゆる、恋人繋ぎ。 照れ隠しに前を向いたまま、逃げられないように、その小さな手を強く握り返した。
あの日、俺たちは確かに、世界で一番幸せな二キロを歩いていたはずだった。
参道を抜け、新都心の駅前へと差し掛かった時だ。凍りついた路面。不自然に膨らんだ、ヘッドライトの白光。鼓膜を突き破るようなブレーキの絶叫が、夜の静寂を切り裂いた。
「あ――」
短い悲鳴。直後、体中に走った衝撃は、熱いというよりむしろ、骨の芯まで凍りつくほどに冷たかった。体が宙に浮き、視界がめちゃくちゃに回転する。一番に感じたのは、痛みじゃなかった。さっきまで確かにそこにあった、右手の熱が――恋羽の指先の感触が、嘘みたいにすり抜けていった絶望だ。
アスファルトに叩きつけられた俺の視界の端で、誰かが泣き叫びながら俺の名前を呼んでいる。
……待てよ。離さないって、約束しただろ。
動かない右手を必死に伸ばそうとして、俺の意識は深い雪の底に沈むように、真っ暗に塗りつぶされた。
次に目を覚ました時、俺の世界からは「冬の三ヶ月間」が消えていた。
三ヶ月後。季節は春へと向かっているはずなのに、俺の感覚だけは、あの日以来ずっと「千の冬」の中に閉じ込められたままだ。
放課後の教室。窓の外から聞こえる野球部の声も、吹奏楽部の音色も、今の俺にはひどく遠く感じる。
「失礼しまーすっ」
その瞬間、教室の空気が、澄んだ鈴の音を鳴らしたように一変した。無駄話に興じていた男子連中が言葉を失い、スマホをいじっていた女子たちが一斉に顔を上げる。入り口に立っていたのは、一人の女の子だった。
緩く巻かれた茶色の髪が、午後の柔らかな光を透かしてきらきらと輝いている。モデルのような整った顔立ち。それでいて、小動物のような愛くるしさを感じさせる大きな瞳。短すぎるスカートから伸びる脚は驚くほど細く、彼女が歩を進めるたびに、教室中に甘い石鹸のような香りが広がっていく。
高嶺の花――いや、そんな言葉では足りない。誰もが遠巻きに眺めることしかできないような、圧倒的な「華」を持った少女。 そんな彼女が、他の誰にも目もくれず、一直線に俺の席へと向かってくる。
椅子を引く音すら憚られるような静寂の中、彼女は俺の机に両手を突き、身を乗り出した。
「――じゃーん! 浅間先輩、お疲れ様ですっ」
計算し尽くされた角度で首を傾げ、真っ直ぐに俺を見つめる。 至近距離で浴びせられる、心臓を無遠慮に叩くような完璧な笑顔。 三ヶ月前の俺は、この笑顔の独占を許されていたらしい。 けれど今の俺は、彼女に近づかれるたびに、自分だけが白紙の台本を渡された舞台に立たされているような、形容しがたい居心地の悪さを感じていた。
「えっと……誰、だっけ」
俺が絞り出した言葉に、彼女の表情が一瞬だけ、まるでひび割れるように強張った。教室の隅で、「また言ったよ、浅間のやつ……」という溜め息が漏れる。
恋羽の潤んだ瞳が、一瞬だけ鋭く痛んだように見えた。
――けれどそれは、瞬き一つでかき消される。彼女はすぐに、さらに深く、俺の心臓を射抜くような完璧な笑顔を作ってみせた。
「ひどーい! 先輩、一目惚れした私の名前、もう忘れちゃったんですか?」
彼女は迷いなく、俺の右腕に自分の腕をギュッと絡めてきた。 コートを脱いだ制服越しに伝わる、柔らかくて温かな感触。
「……三橋、恋羽です。覚えてくださいね? 先輩を恋に落とすために生まれてきた、運命の後輩の名前です!」
教室中の連中が、痛々しいものを見るような、あるいは彼女の献身さに打たれたような複雑な視線を送っている。けれど彼女は、そんな外野の空気なんて意に介さない。俺の顔を覗き込み、あざとく、花が咲くように笑ってみせる。
俺の記憶のどこを探しても、彼女の姿は見当たらない。
なのに、絡められた右手がかつての熱を思い出したように、ひどく熱く脈打っていた。
「忘れてるなら、何度でも初恋させてあげますから。覚悟しておいてくださいね、千冬先輩?」
そう言って彼女は、俺の腕をぎゅっと抱きしめていた両手を、パッと離した。急激に冷えて、なんだか自分のものではないみたいに心許ない。戸惑う俺の目の前で、彼女はくるりと軽やかに、羽が舞うように踵を返した。
短すぎるスカートの裾がひらりと揺れる。 そのまま教室のドアの前で一度だけ立ち止まると、彼女は悪戯っぽく振り返った。
「明日、下駄箱の前で待ってますから。遅刻したら、罰ゲームで私のこと、下の名前で呼んでもらいますね?」
鮮やかなウインクを残して、今度こそ彼女は、教室から去っていった。
俺の記憶のどこを探しても、彼女の姿は見当たらない。
なのに。絡められた右腕が、かつての熱を思い出したように、ひどく熱く脈打っていた。
それが、俺と「運命の後輩」との、やり直しのきかない、二度目の恋の始まりだった。




