影踏みのジンクス②
昼休みの終わりを告げる予鈴が、屋上の冷え切った空気を切り裂いた。 恋羽は満足げにローファーを影から離すと、何事もなかったかのように弁当箱を片付け、千冬に背を向けて階段へと向かう。
「じゃあ先輩、放課後……『楽しみ』にしてますね」
最後の一言だけを残して、彼女の姿は校舎へと消えていった。
放課後。 千冬は、影を踏まれた首元のあたりに、今もなお奇妙な重みを感じていた。 理屈では説明のつかない、非科学的なジンクス。けれど、階段を下りる一歩一歩が、まるで見えない糸に引かれているかのように重い。
(……考えすぎだ。ただのノートの貸し出しだろ)
自分に言い聞かせ、千冬は特別棟の奥にある数学準備室のドアを叩いた。
「失礼します、成瀬先生。ノート、持ってきました」
「あ、千冬! 待ってたわよ。さあ、早く入って」
ドアを開けると、そこには昨日と同じ、どこか浮世離れした美しさを湛えた成瀬遥が、山積みの資料に囲まれて座っていた。 彼女は千冬の姿を見るなり、弾んだ声で手招きをする。
「ごめんなさいね、わざわざ。昨日見えた千冬のノート、あの独自の計算アプローチがどうしても気になっちゃって。私の研究資料として、どうしてもコピーを取らせてほしかったの」
「……先生ともあろう方が、生徒のノートを参考にするなんて」
「ふふ、良いものは良いのよ。それに、千冬の思考の癖を辿るの、すごく楽しいんだもの」
成瀬は千冬からノートを受け取ると、慈しむようにその表紙を撫でた。 その指先が、ほんの一瞬だけ千冬の指に触れる。 朝、恋羽が上書きしたはずの石鹸の香りを、成瀬の体温が再びじわりと侵食していく。
「……あら? 千冬、どうかしたの? じっとして」
成瀬が不意に顔を近づけてきた。 彼女の指先が、千冬のネクタイの結び目——今朝、恋羽が「自分のもの」として結び直した場所に伸びる。
「なんだか、今日はいつもよりネクタイが窮屈そうね。……少し、解いてあげましょうか?」
「いえ、大丈夫です。……三橋に、結び直してもらったので」
「三橋さんに? ……ふうん」
成瀬はクスクスと、けれど全てを見透かしたような瞳で笑った。 彼女の視線は、千冬の喉元から、その足元に伸びる影へと移動する。
「……なんだか今のあなた、目に見えない鎖で首を絞められているみたいに見えるわよ。……その影、誰かに踏まれなかった?」
心臓が跳ねた。 三橋に影を踏まれ、彼女の指先でトントンと叩かれた、あの場所。成瀬の言葉は、まるで千冬の皮膚の下にある「呪い」を直接指でなぞるかのような鋭さを持っていた。
「……先生、コピー。早く済ませてください。三橋が、下で待ってるんです」
「分かってるわよ。そんなに焦らなくても、あの子は逃げやしないわ」
成瀬はノートを抱えて、複合機へと向かう。 機械が規則正しい音を立てて光を放つたび、三橋の作ったお弁当の甘い余韻と、成瀬が向ける知的で扇情的な視線が、千冬の頭の中で激しく衝突する。
(……結局、俺はどこにも行けないのか)
コピー機の青白い光が、千冬の足元に伸びる影を強く照らし出す。 その影の首元には、まだ三橋のローファーの感触が、呪いのように深く刻まれていた。
規則的に繰り返される駆動音と、排気口から漏れる熱を帯びた空気。 その無機質な空間の中で、千冬の神経はすり減っていく。 成瀬先生に対して特別な感情があるわけではない。けれど、彼女は昔から千冬を知る、どこか近所の歳の離れたお姉さんのような、幼馴染に近い存在だった。
それだけに、彼女の振る舞いには遠慮がない。 今、目の前で自分の思考の結晶であるノートを当然のようにめくる成瀬の姿は、教師というよりは、千冬のプライバシーを平気で侵食してくる「親しすぎる他人」そのものだった。 そしてその距離感を拒絶しきれないのは、朝、三橋によって無理やりネクタイを締め直され、昼に影を踏みしだかれたことで、千冬の平穏な自己がすでに激しく摩耗していたからだ。
足元に落ちた自分の影が、コピー機のフラッシュに焼かれるたび、喉元に絡みつく見えない鎖がジャラリと音を立てる。 三橋に踏まれた感触が、時間が経つほどに熱を持ち、皮膚に直接「誰のものか」を刻印し続けている。
(三橋が、下で待っている)
その事実は、かつての千冬なら放課後の予定という単なる認識として処理できた。 けれど今は、その思考さえも三橋の手料理の甘い残香にかき消され、影を踏みしめるローファーの重みが、彼を物理的な拘束以上に縛り付ける。
成瀬の手によって一枚ずつ複写されていく、自分の思考の痕跡。 それを眺めながら、千冬は言いようのない閉塞感に襲われる。 気心の知れた成瀬に脳内を暴かれ、執着にまみれた恋羽に身体の自由を奪われる。
二人の女性の視線が、自分の喉元で交差しているような錯覚。 誰にともなく吐き出したかった溜息すら、コピー機の作動音にかき消される。 影を踏まれた首元に絡みつく鎖は、千冬が理屈で自由を証明しようとすればするほど、より深く、冷たくその肉に食い込んでいった。
カシャ、カシャ、と機械的な音を立ててノートの複写が進む中、成瀬が不意に顔を上げた。
「そういえば、千冬。……あなた、事故の後遺症はもういいの?」
その言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも無防備に千冬の痛い場所を突いた。
「……何の話ですか。見ての通り、ピンピンしてますよ」
「体の方はね。でも、なんて言うのかしら……最近のあなた、どこか『心ここにあらず』って感じがするのよね。昔からあなたを見てる身としては、なんだか違和感があるっていうか」
成瀬はコピーされたばかりの紙を指先で整えながら、どこか面白がるような、けれど慈しむような瞳で千冬を見つめた。
成瀬はコピーされたばかりの紙を指先で整えながら、どこか面白がるような、けれど慈しむような瞳で千冬を見つめた。
「三橋さんとのことだってそう。あの子のあのアプローチ、あれは確信犯のやり方よ。あなたが記憶を失くして、反論も比較もできないのをいいことに、自分の理想を『正解』として植え付けてる。お弁当の好みも、ネクタイの結び方も。彼女、何も思い出せない今のあなたを、自分のためだけの『千冬先輩』に調教してるみたいに見えるわ」
千冬は言葉を失い、喉の奥が引き攣れるような感覚に陥った。 三橋恋羽は、すべてを知っている。知っていて、あえて「記憶喪失」という事実に触れず、献身という名の檻で千冬を飼い慣らしている。
「……三橋がどう考えていようが、俺が彼女の好意を無下にできるわけがない。今の俺には、彼女を拒絶するだけの『理由』すら残っていないんだから」
「あら、その『拒めない弱さ』さえも彼女に計算されてるって、どうして思わないのかしら?」
成瀬がさらに一歩踏み込んでくる。 その瞬間、千冬の脳裏に、昼休みに影を踏みしめた三橋のローファーの感触が鮮明に蘇った。
(三橋は……俺が何も思い出せないことを前提に、あの『呪い』をかけたのか?)
そう考えると、すべてに合点がいってしまう。 彼女がジンクスを持ち出し、非論理的な言葉で自分を縛り付けようとするのは、千冬が「論理」や「記憶」という武器を失っていることを知っているからだ。 真っ白なキャンバスになった今の自分なら、どんな歪な色を塗っても「これが元々のあなただよ」と微笑めば信じ込ませることができる。
影を踏まれた首元の圧迫感は、もはや幻覚ではなかった。 それは、三橋恋羽という少女が千冬の人生に打ち込んだ、鋭く巨大な楔だ。 「忘れてしまった三ヶ月」という暗闇を、彼女はあえて照らそうとはしない。むしろ、その闇をさらに濃く、深く塗り固めることで、千冬が自分の足元すら見えないように仕向けている。
彼女が差し出す完璧な好意は、救いなどではない。 千冬が自分の意志で歩き出そうとするたびに、その影を、その自由を、その人格を、音を立てて踏みしだくための重石。 自分という存在が、彼女の手のひらの上で捏ねられ、彼女好みの形へと作り替えられていく。その過程を、自分は「優しさ」だと誤認して受け入れていたのだ。
コピー機の排気音が、まるで千冬を嘲笑う少女の吐息のように聞こえる。 目の前にいる成瀬は、その地獄を特等席で眺めながら、指先でその表面をなぞって愉しんでいる。
千冬の背中を、冷たい汗が伝った。 自分が誰なのか。かつて誰を愛し、何を信じていたのか。 その正解を握っているのは自分ではなく、今も昇降口で、完璧な笑顔を浮かべて自分を待っているはずの、あの少女なのだ。




