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影踏みのジンクス③

準備室に充満する、古い紙の匂いと熱を帯びたトナーの香り。コピー機が規則正しく放つ青白いフラッシュが、壁に映る千冬の影を何度も、何度も残酷に焼き付けていく。


その無機質な光が爆ぜるたび、成瀬の視線が千冬の喉元を執拗になぞった。


「……ねぇ、千冬。あなた、もしかして本当はもう、思い出そうとする気なんてないんじゃない?」


成瀬の声は、動けない獲物を観察する学者のように冷ややかで、それでいて慈しむような響きを帯びている。千冬は、自分の喉元に絡みついたままの見えない鎖が、ジャラリと音を立てて食い込むような錯覚に陥った。


「思い出せないことを理由に、あの子の献身をただ受け入れて……そうやって空白を彼女色に塗り潰してもらう方が、今のあなたにとっては楽なんですものね」


図星だった。彼女がジンクスを持ち出し、非論理的な言葉で自分を縛り付けようとするのは、千冬が記憶という武器を失っていることを、彼女自身が確信しているからだ。千冬はその事実に気づきながら、何も思い出せないという決定的な負い目ゆえに、そしてその自分を全肯定してくれる彼女の存在に依存し始めている自分ゆえに、彼女が差し出す正解を拒むことができずにいた。


「あの子がすべてを知っていて、あなたを自分好みの千冬先輩に作り替えようとしている。……それを黙って享受しているあなたは、被害者なんかじゃない。思い出せないことを免罪符にして、彼女の執着に身を任せている共犯者よ」


成瀬は、そんな千冬の動揺を愉しむように、机に腰掛けたまま、細い指先でコピーされたばかりのノートの端をなぞっている。


記憶という足場を失った自分に、彼女は三橋恋羽が望む自分という偽りの地面をあてがっている。抗おうにも、自分の中には対抗するための「かつての自分」が何ひとつ残っていない。自分が自分であるための証明書を、すべてあの子に預けてしまったかのような、底知れない無力感。


(俺は、あいつがすべてを知っていると分かっていながら……あいつの檻の中で、解体されるのを待っているのか)


影を踏まれた場所が、じりじりと熱い。まるで皮膚の下に直接、彼女の所有物であることを示す刻印を焼き付けられたかのように。


これ以上ここにいては、自分の芯にある僅かな自意識さえも、彼女たちの手によって塗り替えられてしまう。逃げ場を求めるように、千冬は熱を持ったままのノートをひったくるように掴み、喉の奥から絞り出した。


「……コピー、終わりましたよね。失礼します」


成瀬の返事すら待たずに、千冬は準備室を飛び出した。背後で、成瀬が小さく含み笑いをする気配がした。


「気を付けて帰りなさいね、千冬。……彼女が、首を長くして待っているわよ」


その声から逃げるように、千冬は無人の廊下を急いだ。窓の外は、血のような夕闇が校舎を飲み込もうとしている。一歩、また一歩と昇降口へ近づくたびに、心拍数が跳ね上がり、呼吸が浅くなっていく。


そして、その場所には、やはり彼女がいた。


夕闇が差し込む下駄箱の前。じっと床を見つめていた三橋恋羽が、千冬の足音を聞きつけた瞬間に顔を上げた。


「……あ、先輩。お疲れ様です」


パッと花が咲いたような、完璧な、あまりにも完璧すぎる笑顔。すべてを知っていて、すべてを伏せ、そして千冬が気づいていることさえも計算に入れているような、底の知れない瞳。


恋羽は小走りで駆け寄ると、躊躇いもなく千冬の腕に自分の腕を絡めた。密着した体温。朝、彼女が上書きしたはずの石鹸の香りが、成瀬の部屋のインクの匂いを強引に、暴力的に消し去っていく。


「三橋……」


「ふふっ、なんですか先輩。私が先輩のこと置いて帰っちゃうと思いました?……影を踏んだんですから、帰ってくるって信じてましたよ?」


三橋は千冬の顔を覗き込み、そのネクタイの結び目を、愛おしそうに指先でなぞった。あなたが忘れていることも、それを私が知っていることも。それらすべてを共有した上での、あまりにも甘すぎる抱擁。


「先輩? 顔色が悪いです。……もしかして、成瀬先生に何か変なこと、言われちゃいました?」


彼女の問いかけは、どこまでも優しく、そして逃げ場を許さない。 千冬は、自分の腕に絡みつく彼女の体温が、自分を縛り上げる熱い鎖そのものであることを、今さらながらに理解した。


絡められた腕から伝わる、三橋の拍動。それは一定のリズムを刻みながら、千冬の心拍を無理やり彼女のペースへと引きずり込んでいく。 彼女の指先が、ネクタイの結び目からゆっくりと喉元へ、そして鎖骨の窪みへと滑り落ちた。 薄い制服越しに伝わる体温は、夕闇の冷気の中で不気味なほどに熱を持ち、触れられた場所からじわじわと麻痺が広がっていくような感覚に陥る。


「……三橋。あまり、くっつくな。歩きにくい」


絞り出した拒絶は、自分でも驚くほど弱々しく響いた。 その言葉を聞いた瞬間、三橋はふっと目を細め、腕に込める力をさらに強める。 拒絶すればするほど、彼女の存在はより深く、より密接に千冬の境界線を侵食してくる。


「そんなこと言わないでください、先輩。だって、私はこうして先輩の隣にいるのが、世界で一番自然なことだと思っているんですから。……先輩だって、本当はそう思ってるんでしょ?」


彼女の吐息が耳朶を掠め、脳の奥を直接かき混ぜられるような眩暈がした。 成瀬に指摘された「共犯関係」という言葉が、重い澱となって胃の底に沈んでいく。 三橋は、千冬が何も思い出せないことを知っている。 千冬もまた、彼女がそれを知っていることを知っている。 それなのに、二人は「献身的な後輩」と「守られる先輩」という、用意された台本通りの役を演じ続けている。


その沈黙の合意こそが、千冬を逃げ場のない檻に閉じ込める、透明な格子だった。 彼女の腕の中で、千冬の意思は形を失い、ドロドロと溶けていく。 影を踏み、ネクタイを締め、そして今、腕を絡めることで、彼女は着実に、千冬という人間の「輪郭」を自分だけのものへと書き換えているのだ。


夕闇に溶けゆく校門までの数メートルが、永遠に続く底なしの回廊のように思えた。 千冬は、もう自分が何に怯え、何に安らぎを感じているのかさえ判別できなくなっていた。 ただ、絡みつく熱い鎖の感触だけが、今の自分が「存在している」ことを証明する、唯一の重みだった。


アスファルトに落ちた二人の影は、もはや判別できないほど濃く混ざり合い、一つの巨大な生き物のように路面を這っている。 一歩、また一歩と校門へ向かう足取りは、まるで泥の中を歩いているかのように重い。 校舎の窓に反射する夕陽が、千冬の視界を赤く、不吉に染め上げる。


「先輩、今日は寄り道して帰りませんか? ほら、あの角のパン屋さん、先輩が好きだった……あ」


三橋がわざとらしく言葉を切り、いたずらっぽく小首をかしげた。


「……すみません。今の先輩は、まだ知らないんでしたね。でも大丈夫です。私が全部、教えてあげますから」


慈しむようなその言葉は、千冬の「空白」を自分の色で塗り潰すという宣言に他ならない。 彼女は、千冬が何も思い出せないことを武器にして、彼の中に新しい「偽物の歴史」を構築しようとしている。 そして千冬は、その歪な愛に恐怖しながらも、彼女が差し出す完璧なまでの「正解」の中に、安らぎという名の猛毒を見出していた。


成瀬に指摘された共犯関係。 千冬は自分の卑怯さを自覚しながらも、彼女の腕から逃れる術を持たなかった。

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