影踏みのジンクス①
新学期二日目の朝。 まだ生徒もまばらな昇降口に、ローファーがコンクリートを叩く音だけが響いていた。
「……あ、先輩。おはようございます」
自分の下駄箱を開けようとした千冬の背中に、聞き覚えのある、けれど今は少しだけ避けたかった声が届く。 振り返る間もなく、三橋恋羽が千冬のパーソナルスペースを軽やかに侵食し、その正面に立った。
「三橋、おはよう。……今日は早いんだな」
「先輩に会いたくて、少し急いじゃいました。……あ、動かないでくださいね?」
千冬が何かを言う前に、彼女の細い指先が彼の胸元へと伸びる。 ネクタイの結び目に触れる彼女の指は、春の朝の空気のように冷たかった。彼女は昨日、成瀬遥が「特別扱い」として触れたはずのその場所を、解き、そして一からゆっくりと形を整え直していく。
「……三橋。別に歪んでないし、自分でできるから」
「ダメです。先輩は放っておくと、すぐ『余計な人』の手を借りちゃうんですから。……ほら、昨日の華やかな匂い、もうしませんね」
三橋は千冬の喉元に顔を近づけ、深く、深く息を吸い込んだ。成瀬が纏っていた都会的な香水の残り香を、自身の存在で徹底的に上書きするように。 今、千冬を包んでいるのは、彼女が好む清潔で、どこか逃げ場のない石鹸の香りだけだ。
「……よし。これで、私の先輩に戻りましたね」
満足げに目を細め、千冬の首元をトントンと軽く叩く彼女。その微笑みは無垢で愛らしいが、その瞳の奥には、領土を守る捕食者のような鋭さが同居していた。
「今日は1時間目、数学じゃないんですね。残念。……じゃあ、また昼休みに。……絶対ですよ?」
恋羽は階段へと向かう足を止め、踊り場からじっと千冬を見つめる。 千冬が1階の教室へと続く角を曲がるまで、その視線が背中にまとわりつくのを感じていた。自分の「論理」が、彼女の「執着」という名の非論理にじわじわと侵食されていることに、恐怖に近い焦りを感じながら。
午前中の授業中、千冬は1階の教室で、窓の外を眺めながら論理的思考の整理を試みていた。 2階にいるはずの三橋とは物理的に離れている。 それだけで少しは呼吸が楽になるはずだった。
けれど、チャイムが鳴り響くと同時に、その期待は粉砕される。
「――お疲れ様です、先輩」
教室の入り口。まだ他の生徒たちが昼食の準備を始めたばかりの喧騒の中、彼女はさも当然のような顔で立っていた。 その腕には、朝の下駄箱では持っていなかったはずの小さなトートバッグが大事そうに抱えられている。
「先輩、今日のお昼……一緒に食べませんか?」
首を少し傾げて、人懐っこい笑みを浮かべる三橋。千冬は戸惑いながらも、購買の混雑具合を頭の中で計算して答えた。
「ああ、いいけど……俺、まだ購買でパン買ってないんだ。並ぶのに時間がかかると思うから、先食べてていいぞ」
「パンなら、買わなくて大丈夫ですよ?」
三橋はそう言って、抱えていたバッグを少し持ち上げて見せた。
「……これ、お弁当。先輩の分も、作ってきちゃいました」
「……え?」
「ふふ、驚きすぎです。昨日の『カフェオレ』のお口直し……って言ったら、怒りますか? 先輩の好きなもの、一生懸命作ったんです。……ね? 屋上、行きましょう?」
三橋はそう言うと、首をわずかに傾け、潤んだ瞳でじっと千冬を見つめた。 その口元に湛えられた笑みは、春の日だまりのように温かく、完璧に可憐だ。けれど、その背後にある彼女の意志は、一分の隙もないほどに冷徹で強固だった。
千冬は、彼女の背後に広がる教室の喧騒が、遠い異世界の出来事のように遠のいていく感覚に陥る。 彼女の微笑みは、拒絶という選択肢を千冬の思考回路から完全に消去するための、洗練された「圧力」そのものだった。
もしここで、あらかじめ用意された献身を無下にすれば、この美しい微笑みの奥で何かが決定的に壊れてしまう――そんな本能的な恐怖が、千冬の論理的な拒絶反応を根底から封じ込めていく。
逃げ場はない。 この少女が向ける優しさは、受ける側にとっては逃走を禁じる鎖と同じだった。
「……分かったよ。わざわざ作ってくれたなら、食べないわけにはいかないしな」
千冬がそう答えた瞬間、彼女の微笑みの温度がさらに数度上がったように見えた。けれど、その瞳の奥にある昏い熱だけは、決して揺らぐことはなかった。
屋上の隅、春の柔らかな日差しが差し込むベンチ。 三橋は少し照れくさそうに、けれど誇らしげに、二段重ねの弁当箱を広げた。
「あ、でも、変なものなんて入れてませんよ? 先輩の体は、私がちゃんと管理してあげなきゃいけないんですから」
広げられた弁当箱の中身を見て、千冬は息を呑んだ。 出汁の香りが立つ厚焼き玉子、絶妙な焼き加減の鮭、そして彼が何気ない会話で「好きだ」と漏らしたはずの副菜の数々。
「ほら、先輩。……あーん」
箸でつまんだ玉子焼きを口に運ばれる。拒む理由はどこにもなかった。 口の中に広がるのは、驚くほど自分好みの味付け。それは千冬の味覚の「正解」を、一分の狂いもなく射抜いていた。
(……美味しい。どうして、こんなに俺の好みがわかるんだ?)
美味しいと感じれば感じるほど、千冬の胸の奥には泥のような苦しさが溜まっていく。 これほどまでに自分のことを知り尽くし、慈しんでくれる少女。そんな彼女との大切なはずの「3ヶ月」を、自分だけが失っている。
目の前で幸せそうに微笑む彼女を、自分はかつて、どんな瞳で見つめていたのか。 正解を突きつけられるたびに、思い出せない「空白」が、まるで取り返しのつかない罪のように千冬を苛んだ。
その時、千冬のズボンのポケットで、スマートフォンが短く震えた。
「……あ、すまん」
千冬が何気なく画面を覗き込む。そこには、一瞬で屋上の空気を凍らせるような通知が表示されていた。
『成瀬 遥:千冬、放課後ちょっといい? 君の数学のノート、コピー取りたいんだけど、いいかな? 準備室で待ってるね♪』
(……まずい)
千冬が慌てて画面を伏せようとしたが、それよりも早く、隣に座る三橋の視線がその文字列を正確に捉えていた。 彼女の口元から笑みが消えることはなかった。けれど、その瞳のハイライトだけが、スッと、音を立てるようにして掻き消えた。
「……成瀬先生から、なんですね。放課後、行くんですか?」
「いや、これはその……。先生も準備大変だしな。手伝ってほしいって言われたら、断りづらくて……」
「ふふ、いいんですよ。先輩は優しいですから。……でも、食べ終わったら、一つだけ儀式に付き合ってもらいますね」
彼女の声は、先ほどまでと変わらず鈴の音のように可憐だった。けれど、その響きには抗いがたい決定事項のような冷徹さが混じっている。
食後、千冬がこの重苦しい空気から逃れるように立ち上がろうとした、その瞬間だった。 三橋が、千冬の伸ばされた影の首元を、自分のローファーの先でグイと踏みしめた。
「三橋……?」
「先輩。知ってますか? 自分より先に立ち上がろうとする人の影を踏むと……その人は、その日一日、踏んだ人の元へ必ず帰ってくることになるんです」
三橋は影を踏んだまま、ゆっくりと立ち上がる。彼女の長い影が、千冬を飲み込むように重なった。
「ジンクスですよ。……だから先輩、放課後どこへ行ってもいいですよ。先生のお手伝い、しっかりしてきてくださいね」
彼女は千冬の胸元を軽く指で突き、ゾッとするほど甘く微笑んだ。
「私の作ったものを食べて、私のジンクスにかかったんです。……先輩の体も運命も、もう私から逃げる理由、どこにもありませんよね?」
千冬は、影を踏まれた場所が物理的に重くなったかのような錯覚に陥った。 味覚に残る彼女の手料理の余韻と、首元に絡みつく見えない鎖。 記憶がない自分には、もう彼女の「正解」からも、この呪いからも抗う術など残されていないのだと、絶望に近い諦念が彼を支配していった。




