新学期のジンクス⑤
オックスフォードの石造りの校舎で、私はいつも、ある「正解」だけを追い求めていた。数学の世界は美しい。一切の感情を排し、厳密な論理だけで組み上げられた世界は、裏切ることがないから。
けれど。 日本に戻り、母校の教壇に立って、あの窓際の席に座る「彼」を見つけた瞬間。 私が何年もかけて積み上げてきた論理の城は、あっさりと音を立てて崩れ去った。
(……あはは。相変わらず、ペンを回す時に少しだけ右眉が上がるんだ。変わらないなぁ、千冬は)
教壇から見る彼は、かつて私の背中を追いかけて「はる姉!」とはしゃいでいた面影を残しつつも、見違えるほどに「男の子」の顔をしていた。
それが、なんだか少しだけ、面白くない。
だから、つい意地悪をしたくなる。授業中、わざと至近距離まで顔を寄せて、彼が耳まで真っ赤にするのを楽しむ。自販機コーナーで、わざと「あーん」なんて言って、私の飲みかけのカフェオレを流し込む。動揺して、論理が迷子になっている彼の瞳を見るのが、イギリスにいた三年間で一番欲しかった「ご褒美」だった。
「……あ、今はもう『先生』って呼ばなきゃダメだぞ?」
……そして、もう一つ。私の計算外だった、面白い子。
(三橋恋羽さん、だったかな。あの子の視線……刺さるなぁ)
自販機コーナーで私を睨みつけた、あのハイライトの消えた瞳。 可愛らしい後輩の仮面の下で、ドロドロとした執着を煮え立たせている少女。彼女が千冬のネクタイを「上書き」しようと必死になっている姿を見て、私は確信した。
(私と彼女、きっと同類だ。……自分の『一番大切なもの』を、絶対に誰にも渡したくないっていう、強欲な捕食者)
職員室に戻り、私は一口、残ったカフェオレを飲み干した。 千冬と間接的に唇を重ねた、甘くて苦い味。
「……さて。次は何を教えてあげようかな、千冬」
窓の外、散り始めた桜を見上げながら、私は独り言をこぼす。 数学の公式には、愛も嫉妬も、過去の思い出も書き込むことはできない。 けれど、今の私にはわかる。 今、この学び舎で起きているカオスこそが、どんな難解な数式よりも、私を熱くさせてくれるということを。
「先生が、手取り足取り……『大人』の論理を叩き込んであげるから。覚悟してね?」
私は唇の端を吊り上げ、真っ白な出席簿をそっと閉じた。




