新学期のジンクス④
キーンコーンカーンコーン……。
授業終了を告げるチャイムが、千冬には死刑執行の猶予が終わる合図のように聞こえた。
「はい、今日はここまで! 千冬、後でノート貸してね。ちょっとコピー取りたいから」
成瀬が教卓で荷物をまとめながら、クラス全員に聞こえる声でさらりと「特別扱い」を告げる。
(……まずい)
隣に座る三橋の体温が、一瞬で氷点下まで下がったのが分かった。 千冬は反射的に立ち上がると、三橋と目が合う前に、あるいは彼女が何かを口にする前に、教室を飛び出した。
「ちょっと、飲み物買ってくる……」
誰に言うでもなく言い残し、廊下を早足で歩く。 心臓の鼓動がうるさい。論理的に考えれば、ただの「教師と生徒」のやり取りだ。三橋が怒る理由なんてどこにもない――はずなのに、背中に張り付いたあの視線の冷たさが、千冬の計算をすべて狂わせていた。
人混みを避け、校舎の隅にある自販機コーナーへ逃げ込む。 ここは旧校舎へと続く渡り廊下の近くで、普段から人影もまばらだ。窓から差し込む春の柔らかな日差しとは対照的に、コンクリートの壁に囲まれた空間はどこかひんやりとしていて、今の千冬にはそれが何よりもありがたかった。
(……落ち着け。まずは深呼吸だ。一回、二回……)
肺の奥に冷たい空気を取り込み、千冬は激しく波打つ胸を押さえた。 数学のノートを広げ、規律ある数式に没頭すれば、すべては元通りになるはずだった。それなのに、今の千冬の脳裏に焼き付いているのは、黒板の数式ではなく、隣り合う二つの「非論理」だ。
(三橋のジンクスは、単なる心理学的な誘導に過ぎない。成瀬先生の振る舞いだって、親愛の情が行き過ぎただけのものだ。そこに相関関係はない。あるはずがないんだ)
自分に言い聞かせるように、千冬は冷たい自販機の筐体に背中を預けた。 だが、閉じた瞼の裏に浮かぶのは、折れたシャーペンの芯を見つめていた三橋の、あのハイライトの消えた瞳だ。
「……計算違い、か」
彼女が最後に零した一言が、呪いのように耳の奥で反響する。 論理の世界で生きてきた千冬にとって、自分の予測が及ばない「変数」の出現は、何よりも恐怖だった。しかもその変数は、今の自分の生活圏を完全に支配している「隣の席の少女」なのだ。
逃げ出してきたはずなのに、どこまで行ってもあの石鹸の香りが鼻先を掠めているような錯覚に陥る。 ポケットから小銭を取り出そうとした手が、自分でも驚くほど細かく震えていた。
「……何か、冷たいものを飲もう。糖分を摂れば、脳も正常な判断力を取り戻すはずだ」
そう自分に言い聞かせ、震える指先をコイン投入口へと伸ばした――その瞬間だった。
「あ、千冬。ここにいたんだ」
すぐ横の影から、聞き覚えのある、けれど今の千冬が最も恐れていた「過去」の声が、あまりにもあっさりと静寂を切り裂いた。
自販機の横、建物の影からひょっこりと顔を出したのは、先ほどまで教壇で凛としていたはずの成瀬だった。彼女の手には、飲みかけの紙パックのカフェオレが握られている。
「……成瀬、先生。どうしてここに」
「もうこれなくなりそうでね。……あ、あと先生じゃなくて『はる姉』でしょ? ここには誰もいないんだし」
成瀬は屈託のない笑顔で歩み寄ると、驚いて固まっている千冬のすぐ目の前で足を止めた。ふわりと、彼女が纏う都会的で華やかな香水の香りが、自販機コーナーの無機質な空気をごっそりと塗り替えていく。
「昔から、考えがまとまらなくなるとすぐ、こういう静かな場所に逃げ込むよね。君が中学生の頃、テスト前によく公園の隅っこで君を見つけ出したのを思い出しちゃった」
「それは……昔の話です。今は学校ですし、立場もありますから」
「立場、ねぇ」
成瀬は可笑しそうに目を細めると、千冬が逃げる間もなく、その細い指先を彼の胸元へと伸ばした。
「そんなに『先生』って呼びたいなら、まずは身だしなみから教えてあげなきゃかな。……ほら、ネクタイ、歪んでるよ?」
「え、あ……っ」
逃げようとした千冬の肩を、成瀬のもう片方の手が優しく、けれど拒絶を許さない力強さで押さえた。 至近距離。 成瀬の吐息が届くほどの距離で、彼女は器用にネクタイの結び目を整え始める。
「はい、じっとして。……千冬は、私がいないと本当に放っておけないんだから。イギリスにいる間、ずっと心配だったんだよ? ちゃんとご飯食べてるかな、とか。ネクタイ、自分で結べるようになったかな、とか」
その声は、教師のそれではなく、完全に弟を慈しむ「姉」のトーンだった。 かつての二人だけが共有していた、甘く、閉鎖的な時間。 千冬の「論理」では防ぎきれない、圧倒的な過去という名の暴力。
「よし、これでいっか」
成瀬はそう言うと、自分の手に持っていた紙パックのカフェオレを、千冬の唇にそっと押し当てた。
「ほら、お疲れ様。さっきの授業、頑張った千冬への『ご褒美』。一口飲みな?」
「ちょっ、先生……これ、先生が飲んでるやつじゃ……」
「いいから。……はい、あーん」
有無を言わせぬ明るい強引さに、千冬は抗いきれず、数滴の甘い液体を喉に流し込んだ。口の中に広がる、少し苦くて甘ったるいカフェオレの味。それは、かつて「はる姉」の部屋で一緒に宿題をしていた時に分けてもらった、あの懐かしい味そのものだった。
「……ふふ、やっぱり千冬は甘党だね。耳まで赤くして。そんなに先生のご褒美、美味しかった?」
だが、その甘やかな空気を切り裂いたのは、鋭い言葉ではなく、冷徹な靴音だった。
カツン。
コンクリートの床に響いたその音に、千冬の心臓が、今度こそ物理的に止まったかのような衝撃を覚える。
「……あ」
影からゆっくりと姿を現したのは、三橋恋羽だった。 飲み物を買いに来たはずの彼女の手には、何も握られていない。自販機のボタンを押すことすら忘れたのか、あるいはそんなことは最初からどうでもよかったのか。
彼女は、成瀬が千冬のネクタイを直し、肩に手を置いているその光景を、瞬きもせずに見つめていた。その瞳にはハイライトの一片すら存在せず、ただ真っ黒な深い淵のように、成瀬と千冬の姿を映し出している。
「……三橋、これは……」
「あら、先輩。こんなところにいらしたんですね。喉が渇いたっていって教室を飛び出すから、心配になって追いかけてきちゃいました」
三橋の声は、驚くほど穏やかだった。けれど、脇に下げた彼女の拳は、爪が手のひらに食い込むほど白く強張っている。
「……お邪魔、しちゃいましたか? 先生と先輩が、そんなに……『家族ぐるみ』で仲が良いなんて、私、知りませんでした」
三橋は自販機には目もくれず、一歩、また一歩と、逃げ場のないコーナーの奥へと足を踏み入れてくる。
「――ねえ、先生。そのネクタイ、私が授業中に少し乱しちゃったんです。……だから、直すのは私の役目かなって思ってたんですけど」
三橋の口元に、三日月のような歪な笑みが浮かぶ。 「授業中に乱した」という、千冬にしか分からないはずの『秘密』を、成瀬の前で平然と、そして挑発的に突きつける。
「先生は、お勉強を教えるのがお仕事ですよね?」
三橋は成瀬を射抜くような視線を維持したまま、一歩、また一歩と距離を詰めていく。
「お勉強以外のことは、学校の外に置いてきてもらえませんか? ……『先生』が、生徒のプライベートにまで手を出すのは……ちょっと、図々しいと思うんです」
三橋の口元に、三日月のような歪な笑みが浮かぶ。 「図々しい」という、年上の教師に対してはあまりに不遜な言葉。けれど、それを今の彼女は、心底不快そうに、そして当然の権利であるかのように言い放った。
「思い出話も、ネクタイを直すのも、先生の代わりはいくらでもいますから。……ね、先輩? 私、先生にはできないこと、もっとたくさん知ってますもんね」
三橋は最後に千冬へと、逃げ場を塞ぐような甘い、けれど冷徹な視線を投げかけた。
「図々しい、か。……ふふ、手厳しいね、三橋さん」
三橋の刺すような言葉を真っ向から受けながらも、成瀬は顔色ひとつ変えなかった。それどころか、彼女は千冬の肩に置いていた手を、慈しむようにスッとスライドさせ、彼の頬を指先で軽く弾いてみせた。
「……成瀬、先生」
「ごめんね、千冬。君の邪魔をするつもりはなかったんだ」
成瀬は、三橋の怒りなど初めから存在しないかのように、楽しげに肩をすくめてみせる。その態度は、目の前で牙を剥いている三橋を「敵」としてではなく、あくまで「血気盛んな可愛い教え子」として扱っているようでもあった。
「それじゃ、私は職員室に戻るね。……あ、三橋さん」
成瀬は、身を翻して去り際に、足を止めて三橋の方を振り返った。その瞳には、教師としての穏やかな光と、それとは別の、何か確信に満ちた色が混ざり合っている。
「ネクタイ、歪んでたのは本当だから。……次からは、三橋さんが『授業中』にしっかり見ててあげてね? 千冬は、放っておくとすぐどこかに逃げちゃう子だから」
「…………っ」
成瀬は最後にもう一度、千冬にだけ見える角度でパチンとウィンクを投げると、都会的な香水の残り香だけを残して、軽やかな足取りで廊下の向こうへと消えていった。
静まり返る自販機コーナー。 逃げ場を失った千冬と、獲物を追い詰めたはずなのに、どこか「格の違い」を見せつけられたような苛立ちを隠せない三橋。
「……先輩」
三橋が、ゆっくりと顔を上げる。 その唇は微笑みの形を保とうとしていたが、微かに震える指先が、彼女の内側で渦巻く感情の激しさを物語っていた。
「……今のは、どういう意味ですか? 『逃げちゃう』って……。先輩は、私の隣から逃げたりなんて、しませんよね?」
三橋は一歩、千冬のパーソナルスペースを完全に侵食する距離まで詰め寄ると、成瀬が触れたばかりの彼のネクタイを、今度は力任せに、ぐい、と自分の方へ引き寄せた。
「……っ、三橋……」
「成瀬先生、すごく『お姉さん』って感じでしたね。先輩のことを、何でも知ってるみたいに笑って……」
三橋の指先が、成瀬が触れたはずのネクタイの結び目を、上からなぞるように這う。それは汚れを拭き取るような、あるいは、自分の印を上書きするような、執拗な動作だった。
「先輩、今、成瀬先生に触られて……昔のことを思い出してました?」
「いや、そんなことは……」
「嘘。……だって先輩、耳まで赤くなってますもん」
三橋の声から温度が消える。 彼女は引き寄せたネクタイを緩めるどころか、さらに自分の指に絡め取り、千冬の喉元にその柔らかな重みを預けてきた。
「ねえ、先輩。さっき先生が言ってたこと、本当ですか? 先輩は、放っておくと私の隣から逃げちゃうんですか?」
「……それは、成瀬先生の勝手な言い分で……」
「私は逃がしませんよ」
遮るように放たれた言葉は、甘く、けれど鉄のような硬度を持っていた。 三橋は千冬の胸元に顔を埋めるようにして、深く、深く、彼の香りを吸い込む。
「べつに、いいんです。先輩がどれだけ私のことを……あの3ヶ月間のことを、綺麗さっぱり忘れちゃっていても。私が先輩を絶対に逃がさないことに、変わりはありませんから」
三橋が顔を上げると、そこには出会った頃のような、無垢で愛らしい「後輩」の微笑みが戻っていた。 だが、その瞳だけは笑っていない。真っ黒な瞳が、千冬の困惑した顔をじっと射抜いている。
「何度忘れられたって、その度に私が、分からせてあげます。先輩の隣は、先生の場所じゃない。……私が、先輩を絶対に逃がさないための『特等席』なんだってこと」
三橋は、千冬の胸を掴んでいた手の力を少しだけ緩め、代わりにネクタイの結び目を、今度は壊れ物を扱うような手つきで整え直した。
「だから、どこにも行かないでくださいね? ……ネクタイ。今度からは、私が直しますね? 全部、私だけで足りるはずですから」
「……三橋、お前……」
「約束ですよ、千冬先輩?」
密着した身体から、彼女の心臓の鼓動がドクドクと伝わってくる。三橋は最後に、千冬の唇のすぐ近くで、ゾッとするほど甘く微笑んだ。
「もし破ったら……私、今度はネクタイじゃなくて、何を引っ張っちゃうか自分でも分かりませんから」
耳元で囁かれたその声は、春の陽気さえ凍りつかせるほどに冷ややかだった。
三橋はそれだけ言い残すと、何事もなかったかのようにパッと身を離した。先ほどまでの重苦しい執着が幻だったかのように、彼女の顔にはいつもの、どこかあざとくも愛らしい「後輩」の笑顔が戻っている。
「さ、教室まで送り届けてあげます。行きましょう? 先輩」
「……三橋。お前、次の時間は……」
「受けますよ。でも、先輩がちゃんと席に着くのを見届けるまでは、放っておけませんから」
彼女が千冬の腕に自分の細い腕を絡める。 その温もりはあまりに柔らかく、けれど千冬にとっては、どんな鎖よりも重く、逃れられない枷のように感じられた。
論理。数式。因果関係。 そんなものでは到底説明できない巨大な歪みが、今、千冬の日常を確実に、そして美しく侵食し始めていた。
遠くで、予鈴が鳴る。 引きずられるようにして廊下へ戻る千冬の背後で、ただ無機質な自動販売機のコンプレッサーだけが、静かに唸り続けていた。




