新学期のジンクス③
最後にもう一度、悪戯っぽくウィンクを投げると、成瀬は教壇で出席簿をパンと叩いた。
「よし、じゃあ脱線はここまで。……三橋さんも、席に着いて? 授業、始めるよ」
その一言で、凍りついていた教室の空気が、強制的に「数学の授業」という本来の形へと鋳直されていく。 三橋は無言のまま、ゆっくりと、けれど一切の不服を感じさせない優雅な動作で自分の椅子に腰を下ろした。
千冬はようやく、自分の頭の上に平穏な重力が戻ってきたのを感じた。 激しく乱れていた心拍数も、教壇に立つ「数学教師・成瀬遥」の凛とした背中を見ているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
(……そうだ。どれだけ外的な変数が加わろうと、授業が始まればそこは論理の領域だ。成瀬先生も、教壇に立てばプロの教師。三橋も、授業中にまで俺を振り回すようなことはしないはず……)
千冬は、自分自身にそう言い聞かせるように、震える手でシャープペンの芯を出し、教科書に視線を落とした。
「はい、それじゃあ教科書の1ページ目開いて! まずはこの公式の『美しさ』からおさらいしていくよ!」
成瀬の快活な号令とともに、一斉に紙をめくる音が教室に響き渡った。黒板には、オックスフォード仕込みの迷いのない筆致で数式が躍り、チョークが小気味よいリズムで硬い音を立てる。
それは、千冬が切望していたはずの「規律ある授業」の風景そのものだった。 だが、現実は千冬の論理的な予測を無慈慈に裏切っていく。
隣の席から、衣類が擦れる音と共に、柔軟剤か何かの淡い石鹸のような香りがふわりと届く。 成瀬が黒板に向き直り、教室内が「教師と生徒」という公的な空気に支配されたその瞬間を、隣に座る少女は見逃さなかった。
彼女は前を向いたまま、教科書を指でなぞる自然な動作で、わずかに千冬の方へと体を傾ける。そして、周囲の筆記音に紛れるような小さな、けれど千冬の鼓膜にだけは鮮明に届く熱を送り込んできた。
「……ねえ、先輩。知ってますか? この学校に伝わる、新学期のジンクス」
授業という静寂の帳が下りたからこそ、その囁きは、どの騒音よりも深く千冬の思考を支配した。
「新学期最初の一時間目……『隣り合った人』と、その授業中に三回以上目が合うと、卒業するまでずっと、その二人の関係は変わらないんですって」
恋羽は、唇の端だけにわずかな笑みを浮かべ、前を向いたまま視線だけをスッと千冬に投げる。
「だから、もし先輩が、他の方と新しい関係になりたいって思っていても……もう手遅れかもしれませんね。だって、私と先輩、今だけで何回も目が合っちゃいましたもん」
そう言って彼女は、指先でちょんと、千冬のネクタイを悪戯っぽく弄る。
「卒業まで、ずっとこのまま。……ね、先輩。私、一度信じちゃったジンクスは、絶対に現実にするタイプなんです」
「……三橋、それは確率論的に言えば単なる……」
「『非論理的』、ですよね? ふふ、わかってます。でも、もし本当になっちゃったら――その時は、運命ってことで諦めてくださいね?」
三橋はそう言って、千冬の耳元に微かな吐息を残すと、何事もなかったかのようにノートにペンを走らせ始めた。
「……っ」
千冬は、熱を持った耳たぶを隠すように、不自然な動きで首を振った。 だが、視界の端でノートにペンを走らせる三橋は、すでに「優等生」の顔に戻っている。まるで先ほどの囁きが、千冬の脳が見せた白昼夢だったのではないかと思わせるほどに。
しかし、机の下で微かに揺れた制服の感触だけが、執拗に脳裏にこびりついて離れない。
「――はい。じゃあ、まずは小手調べ。この式の『正体』を見破れる人、いるかな?」
教壇でチョークを置いた成瀬が、くるりと振り返る。 その瞳は、教室全体を俯瞰する「教師」の鋭さを持ちながらも、どこか楽しげな悪戯心を隠そうともしていない。
クラス中がその圧倒的なオーラに気圧されて静まり返る中、成瀬の視線は吸い寄せられるように、窓際の席へと向けられた。
「……あ、そうだ。ちょうどいいところに、すっごく難しそうな顔してる子がいた」
成瀬は教卓に腰をかけるようなラフな仕草で、千冬を指差して屈託なく笑う。
「昔から、考え込むとすぐ眉間にシワ寄せるんだよね。……ね、千冬? その凝り固まった頭、先生がほぐしてあげようか。ちょっと前までおいで。今の君がどこまで通用するか、試してみたいんだ」
(……断れるわけがないだろ)
千冬は内心で溜息をつきながら、椅子を引いた。 成瀬の言葉は、教師としての指名であると同時に、千冬の「逃げ道」を鮮やかに塞ぐ挑戦状でもあった。
その時、隣から「スッ」と服の擦れる音が聞こえた。 三橋が、まるで千冬を送り出す献身的な後輩のような顔をして、けれどその実、成瀬への対抗心を隠さない完璧な笑顔で千冬を見上げたのだ。
「ふふ、先輩。先生が直々に『ご指名』ですよ? ……いってらっしゃい」
三橋はそう言って、千冬にしか見えない角度で、机の下にある彼の膝を、指先でツンと突ついた。 その感触は、先ほどの「上書き」の余韻を呼び覚ますように、千冬の集中力を乱暴に掻き乱す。
教壇で不敵に笑う、過去を知る最強の数学教師。 隣で甘い呪いを囁き続ける、現在を支配する特待生。
千冬は、一歩一歩がひどく重く感じる足取りで、二人の視線が交差する「処刑台」へと歩き出した。
背中に突き刺さるクラスメイトたちの好奇の視線。だが、それ以上に千冬を苛ませるのは、正面で待ち構える成瀬の輝くような笑顔と、背後から無言で注がれる三橋の、あまりに密度の高い視線だった。
教壇に立つ成瀬の前に辿り着くと、彼女からは、先ほどの三橋の石鹸のような香りとは違う、もっと華やかで都会的な、香水の香りがふわりと漂ってきた。
「はい、チョーク。……頑張ってね、千冬。君のノート、いつも綺麗だったから期待してるよ?」
成瀬は、生徒たちには見えない角度で、千冬にだけ分かるようにパチンとウィンクをしてみせた。その、かつての「はる姉」のままの距離感に、千冬は手にしたチョークを握りしめる。
(……この人は、自分がどれだけ場をかき乱しているか分かっていて、楽しんでいるんだ)
千冬は視線を黒板へと固定し、成瀬が書き殴った数式と向き合った。 オックスフォード流。確かに、これまでの授業で見てきたものより数段抽象度が高く、一筋縄ではいかない。だが、幸いにも数学は「論理」の世界だ。感情やジンクスなどという不確実な変数が介入する余地はない。
千冬は思考を加速させた。頭の中にあるはずの恋羽の囁きや、成瀬の手の感触を、冷徹な数式の羅列で塗り潰していく。
カツ、カツ、カツ、とチョークの音が心地よいリズムを刻み、黒板に千冬の論理が展開されていく。その鮮やかな解答に、教室内の空気がわずかにどよめいた。
「……よし。……できました」
最後の一線を書き終え、千冬が短く息を吐いたその時だった。
「うん、完璧! さすが千冬、先生の見込んだ通りだね」
成瀬は弾んだ声で言うと、千冬の解答を覗き込むようにして、スッと顔を近づけてきた。ふわりと、彼女の纏う華やかな香りが千冬の思考を麻痺させる。
「ここの処理、ちょっと堅苦しいかな。今の解き方もいいけど、先生、あの時の千冬の『柔軟な発想』の方が好きなんだけどな。……ね、次もっと良い解き方できたらご褒美、考えてあげてもいいよ?」
成瀬はいたずらっぽく片目を瞑り、千冬の肩をポンと叩いた。 それは、教師としての指導を装った、あまりにも甘い、そしてあまりにも破壊力のある提示だった。
千冬の顔が、一気に耳まで赤く染まる。 ご褒美。魔法の解き方。成瀬にとっては微笑ましい思い出話でも、思春期の千冬にとっては、今の三橋との均衡を崩しかねない猛毒に等しい。
(……やめてくれ、そんなの……今この状況で言われたら……!)
恐る恐る、千冬は三橋の席へと視線を向けた。
そこには、折れたシャーペンの芯を指先でじっと見つめる、無表情な三橋の姿があった。 彼女は折れた芯をそのままに、ゆっくりと顔を上げると、教壇で成瀬と至近距離にいる千冬を、一切のハイライトが消えた瞳で射抜いた。
言葉はない。けれど、三橋から漂ってくる空気は、先ほどまでの「ジンクスを楽しんでいる可愛い後輩」のそれとは、完全に出自の異なるものに変わっていた。
さっき囁いたばかりの「三回目が合えば卒業までずっと一緒」なんていう、いかにも女の子らしいジンクスの甘さは、もうどこにもない。 そこに座っているのは、自分の聖域に土足で踏み込まれたことを悟り、静かに、けれど確実に「排除」の計算を始めた一人の捕食者だった。
(……目が、全然笑ってない……)
千冬の背筋に、先ほど成瀬が吹きかけた熱とは真逆の、氷のような寒気が走る。 三橋は折れたシャーペンを置くと、指先で自分の唇をそっとなぞった。それは、先ほど千冬の耳元で「運命ってことで諦めてくださいね」と囁いた時に浮かべていた、あの艶然とした微笑みの名残を自ら消し去るような、不気味な動作だった。
「はい、それじゃあ千冬、席に戻っていいよ。……次も楽しみにしてるからね?」
成瀬の追い打ちのような一言が、静まり返った教室に無邪気に響く。
千冬は、もはや自分の足がどちらを向いているのかも分からないまま、逃げるように教壇を降りた。 一歩、また一歩と自分の席――つまり、三橋恋羽の隣という「処刑台」へ近づくたびに、彼女の視線が肌を切り裂くような実感を伴って強まっていく。
成瀬遥という最強の過去が、無自覚に振りまく甘い毒。 三橋恋羽という可愛さの固まりが、その仮面を脱ぎ捨てて剥き出しにしたドロドロの執着。
席に戻り、椅子を引いた瞬間。 千冬の耳に届いたのは、隣に座る少女が、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた「計算違い」という一言だった。




