新学期のジンクス②
最強のライバルと、最強の味方。 浅間千冬が「論理」という壁で必死に守ろうとした平穏な日常は、一時間目にして計算不可能なカオスへと飲み込まれていった。
「……はぁ。もう勝手にしてくれ」
千冬が力なく机に突っ伏すと、前の席で凪冴が「まぁそう言うなよ」と肩を揺らす。隣では、三橋が満足げに自分の教科書やノートを並べ、千冬の机との境界線に自分のペンをわざとはみ出させて「陣地」を広げている。後ろの席からは佐伯が「浅間のこんな死にそうな顔、新学期早々見れるとはね」と、さらりと毒を吐いては面白がっている。離れた席では、白氷が「一時間目からこの騒々しさ……先が思いやられるわ」と呟きながら、一切の無駄がない動きで眼鏡を拭いていた。
それぞれの思惑が絡み合い、教室内に奇妙な熱気が充満する。 だが、千冬はまだ信じていた。このカオスも、授業が始まり、教師という「規律」が教室に入ってくれば、自分を縛るあの煩わしい熱量も、静かな教室の空気に溶けて消えるはずだと。
(……これ以上、非論理的な変数が加わることはない。授業さえ始まれば、俺の日常は取り戻せる……)
そんな、一縷の望みを託した祈りのような自己暗示。それを嘲笑うかのように、廊下から聞き覚えのある、やけにリズミカルな足音が近づいてきた。
そこへ、予鈴のチャイムが重なる。騒がしかった教室がわずかに静まり、廊下から軽快な足音が近づいてきた。
ガラッと開いた扉から飛び込んできたのは、数学教師という堅苦しいイメージを粉砕するような、弾ける笑顔の女性だった。ふわりと巻かれた明るい茶髪が揺れ、健康的な白い肌に、いたずらっぽく形の良い唇が弧を描く。 淡いベージュのセットアップから覗くラインは、モデルのようにしなやかで、彼女が教壇に立った瞬間、教室中の男子の視線が吸い寄せられるように釘付けになった。
「はーい、お待たせ! 全員揃ってるかな?」
鈴を転がすような、よく通る声。千冬は、その顔を見た瞬間、持っていたペンを指から滑り落とした。静まり返った教室に、カラン、という乾いたプラスチックの音が空虚に響く。
思考が完全に停止し、喉の奥から乾いた音が漏れる。視界に映る「大人の女性」としての完成された可愛らしさは、千冬の脳内にあるはずの、古ぼけた記憶のパズルを乱暴にかき回した。
「今年からみんなの数学を担当することになった、成瀬遥です! 新任で至らないところもあると思うけど、数学は楽しんでナンボ! ガンガン攻めていくから、みんなよろしくね!」
パンッと景気よく手を叩き、成瀬は教室中にウィンクを振りまく。
その破壊力に男子生徒たちが「おぉ……」と低くどよめく中、彼女は教卓に手をつき、楽しげに教室全体を見渡した。 一人ひとりの顔を品定めするように、それでいて慈しむような、ひどく魅力的な視線。 静まり返った教室内で、彼女の瞳が窓際の列、賑やかな面々に囲まれた千冬のところでピタリと止まる。
成瀬の口角が、さらに意地悪く、そして懐かしそうに跳ね上がった。
「……うん、見ーっけ」
彼女はヒールの音を響かせ、まっすぐに窓際の列へと歩き出す。 面白そうに眺める凪冴の横を通り過ぎ、固まっている千冬の目の前で足を止めた。
「おっ、やっぱり千冬じゃん! 相変わらずそんな難しい顔して。昔はもっと、はる姉ー! って元気よく走ってきてくれたのに。……あ、今はもう『先生』って呼ばなきゃダメだぞ?」
成瀬はそう言って、千冬の頭をクシャッと撫でた。
「……っ、やめてください。……成瀬、先生」
千冬は顔を真っ赤にしながら、その手を振り払うこともできず、ただ強張った声でそう応えるのが精一杯だった。その「先生」という呼び方には、かつての呼び名を無理やり封じ込めようとする、必死な自制心がにじみ出ている。
その瞬間、千冬のすぐ隣で、するはずのない甘いイチゴの香りが刺すような冷気へと変貌したのを、彼は本能的に察知した。
「……先生。授業中ですよ。公私混同は、教師としていかがなものかと思いますが」
氷点を下回ったような三橋の声が、熱を帯びた教室の空気を一瞬で凍りつかせた。 千冬は撫でられた感触に硬直し、顔を真っ赤にしたまま動けない。その隣で、三橋はゆっくりと椅子を鳴らして立ち上がり、成瀬の手に真っ直ぐな視線をぶつけた。
いつもの、ふわりとした計算高い可愛らしさは微塵もなかった。語尾を跳ねさせるような甘い響きも、男を惑わすような潤んだ瞳の演技も。今の彼女にあるのは、自分の聖域を汚されたことに対する、剥き出しの敵意。
三橋恋羽から「あざとさ」という仮面が完全に剥がれ落ちたのを、クラス全員が息を呑んで見守っている。
「おっと、ごめんごめん! 怖いなあ、さすが噂の特待生。正論で攻めてくるねえ」
成瀬はひらひらと手を振って千冬の頭から手を離したが、その謝罪に反省の色はこれっぽっちもなかった。むしろ、牙を剥いた三橋の反応を「期待通り」だと言わんばかりの、余裕に満ちた笑みを崩さない。
「まさか自分の受け持つクラスに、昔からよく知ってる千冬がいるなんて思わなかったからさ。先生、ちょっと嬉しくなっちゃった。ね、千冬?」
「……期間の長さは、濃度の証明にはなりません」
声のトーンはどこまでも低く、平坦。成瀬の悪気ない、けれど教師という立場すら超えてにじみ出る「親密さ」に対しても、三橋は表情一つ変えずに言葉を叩きつけた。いつものあざとい微笑みは完全に消え、冷徹なまでの拒絶がそこにある。
「あはは! 言うねえ、三橋さん。嫌いじゃないよ、その負けん気の強さ」
成瀬はいたずらっぽく肩をすくめると、ダンスを踊るような軽やかな足取りで、余裕を振りまきながら教卓へと戻っていった。
だが、ふと思い出したように「そうだ!」と声を上げ、くるりとこちらを振り返る。
「あ、言い忘れてた。みんな、新任だからってナメてかかると痛い目見るよ? 先生、こう見えてもここの卒業生だし、大学はオックスフォード。向こうで数理科学を専攻して、飛び級で博士号まで取ってきちゃった。実力だけは折り紙付きだから、特例でいきなり最高学年の君たちを任されたわけ。……ま、私の授業についてこれれば、合格までは私が責任持って引っ張ってってあげる」
チョークを指先で弄びながら、成瀬は不敵に笑う。 その瞬間、それまで彼女を「目の保養」として見ていた男子生徒たちの空気が変わった。離れた席で冷ややかに見ていた白氷も、眼鏡の奥の瞳を僅かに細める。
この学校のレジェンド級の卒業生にして、オックスフォード帰りの超エリート。 数学教師としての圧倒的なスペック。その事実は、彼女がただの「賑やかなお姉さん」ではないことを教室中に知らしめた
千冬はようやく、止めていた呼吸を再開させた。 勝手に上がりきっていた血圧が、ようやく正常な数値へと戻っていくのを感じながら、震える手で机の上のペンを拾い上げる。
(……一時間目から、なんて日だ……)
ひとまず成瀬が離れたことに安堵して隣を見た千冬は、しかし、そのまま再び息を呑んだ。
三橋が、無言のまま千冬の頭に手を伸ばしたのだ。 先ほど成瀬の手が触れた場所。そこを塗りつぶすように、彼女は自分の手のひらを重ね、ゆっくりと、執拗なまでに丁寧に撫で始めた。
「……三橋?」
「……上書き、しないといけないので」
そこに、甘く囁くようなニュアンスは欠片もない。まるで自分の所有物を検品し、他人の痕跡を一つ残らず消し去ろうとするような、静かで、それゆえに恐ろしい手つき。
「……ねえ、先輩。はる姉、だなんて。あんな浮ついた女の人と、どんな『過去』があったんですか?」
伏せられた睫毛の奥で、三橋の瞳が暗く淀んでいる。 あざとく振る舞って千冬を困らせていた時よりも、今の無機質な彼女の方が、千冬の論理を何倍も強く締め付けていた
「……ただの、幼馴染だよ。昔、家が近所だったっていうだけの」
三橋の手が頭を撫でる「上書き」の感触に耐えかねて、千冬は掠れた声でようやくそれだけを絞り出した。それは、千冬が必死にかき集めた、最も事実に基づいた、最も波風の立たないはずの「論理的」な回答だった。
だが、その答えを聞いた瞬間、千冬の頭を撫でていた三橋の指先が、ぴたりと止まる。
「……そうですか。幼馴染。……家が近所」
三橋が、その言葉の断片を、まるでもう一度咀嚼するように繰り返した。 伏せられた睫毛のせいで彼女の視線は読み取れないが、耳元に届く吐息は、先ほどまでの刺すような冷気から、より一層重く、深く、逃げ場のない「何か」へと変わっていた。
ようやく顔を上げると、 そこには先ほどまでの刺すような冷気はない。代わりに、ふわりと花が咲くような、いつもの完璧な笑みが戻っていた。
「あ、なんだ! そうだったんですねぇ、先輩。……良かったぁ」
三橋はそう言って、安心したように自分の胸に手を当てた。声のトーンも、いつもの甘く弾むような響きを取り戻している。だが、彼女の瞳だけは、一切の温度を宿さずに千冬を真っ直ぐに見つめていた。
「『ただの』過去の人なら、私が今さら気にする必要なんてないですもんね? ……ねぇ、先輩」
恋羽は、首をコテンと傾けて小首をかしげる。 あざといほどに可愛らしい動作。けれど、机の下で千冬の手に重ねられた彼女の指先は、逃走を許さないほどの力で、ぎゅっと、千冬の肌を強く締め付けた。
「でも、先生が触ったところは、やっぱり私、嫌なんです。だから……もっとしっかり、上書きしてあげますね?」
愛くるしい笑みのまま、三橋はもう一度千冬の頭を優しく、けれど執拗に撫で回す。 あざとく、可愛く、そして逃げ場のない狂気を孕んだ「味方」の姿。
教壇からは成瀬の「さあ、それじゃあ教科書の1ページ目開いて!」という快活な声が響く。 成瀬遥という「最強のライバル」が、三橋の独占欲をより高度で、よりあざとい次元へと進化させてしまったのだ。
規律が戻るはずだった数学の授業。その幕開けは、千冬にとって、どの休み時間よりも過酷な包囲網の完成を意味していた。




