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新学期のジンクス①

四月。校庭の桜は、あの日メモ帳に記されたマークと同じ、残酷なほど鮮やかなピンク色に染まっていた。


千冬は新しい教室の、一番後ろの窓際の席に陣取った。  この春休み、彼のスマートフォンはかつてないほど騒がしかった。


――『先輩、原宿に新しいイチゴのスイーツ店ができたらしいですよ!』


 ――『今日なら、英語の予習付き合ってあげてもいいですけど?』


 ――『あ、今、コクーンで映画見てます。先輩、今から来たらキャラメルポップコーン半分あげますよ?』


三橋からの、執拗なまでの誘い。 その通知が画面を叩くたびに、耳の奥では、あの雪の夜の動画が勝手に再生された。  ――『……断る。一度しか言わないと言ったはずだ』  イヤホン越しに聞いた、ひどく困ったような自分の声。 自分が自分でなくなるような、あの得体の知れない熱量を思い出すたびに、千冬は逃げるように端末を伏せ、「単語の定着に充てている」「数学の演習計画が詰まっている」と、冷淡な拒絶を送り続けてきた。


(……同じ校内にいる以上、接触をゼロにするのは不可能だろうが……さて、どうあいつを捌ききるか)


校門をくぐる際、一瞬だけ鼻をかすめたイチゴの幻香を振り払う。学年が違うという物理的な境界線。ここは三年生だけの、受験という現実が支配する空間だ。 ここなら誰にも邪魔されず、自分を律することができる。そう信じて、千冬は真新しい単語帳に視線を落とした。


だが、その安らぎは、教室の扉が開くと同時に脆くも崩れ去る。


「……は?」


千冬の口から、非論理的な声が漏れた。


「せんぱーい! 見つけましたっ」


人混みをかき分けるようにして歩み寄ってきた彼女は、千冬の絶句などお構いなしに、その細い指先で彼の制服の袖をきゅっと掴んだ。


「新学期初日からそんなに驚いた顔して、どうしたんですか? まるで幽霊でも見たみたいな顔ですよ」


千冬が絶句していると、三橋はベビーピンクの袖から一枚のカードを取り出し、いたずらっぽく振ってみせた。 千冬がひったくるようにしてその紙に目を落とすと、そこには流麗なフォントで『特別聴講生許可証』と記され、その下にははっきりとこう書かれていた。


――対象科目:数学  

――指定クラス:3年A組


「ふふ、驚きました? 私、今年から始まった『飛び級特進プログラム』に選ばれたんです。数学の授業だけ、先輩と一緒に受けることになりました」


それは、特定の科目で突出した成績を収めた生徒にのみ与えられる、学年の枠を超えた特別制度。 千冬が春休み中、彼女を遠ざけるための最強の盾として使った「数学の演習計画」。恋羽はその盾を、自分と彼を物理的に結びつけるための「鍵」に変えてしまったのだ。


「三橋、お前……そのために、あんな……」


「そうですよ? 先輩が『数学の演習で忙しい』なんて言うから。私も先輩の隣に並べるように、春休み中、私なりに数学、すっごく頑張ったんです。……ね、褒めてくれます?」


耳元で囁かれた声は、スマホのスピーカー越しに聞いていたものより、ずっと鮮明で、ずっとあざとい。


浅間千冬が信じていた学年という名の物理的な境界線は、彼女の執念によって、新学期初日にあっさりと踏み越えられた。


「同じ授業を受けるんですから、もうあんな冷たいお断りも、数学を理由にした逃げ口上も通用しませんよ?」


三橋は椅子を引き、千冬の方へと体を向けて座る。 ふわりと、あの雪の夜に千冬の理性を狂わせたイチゴの香りが、確かな現実として彼の鼻腔を突いた。


「……三橋、お前な」


「先輩が受験に集中したいって言うから、一番近くで『監視』してあげなきゃって。……ね、嬉しいでしょ?」


挑戦的に細められた瞳。 千冬は悟った。この一年、彼が計画していた「完璧な学習スケジュール」の中に、この自由奔放な後輩を捌ききるための余白など、一分たりとも存在しないことを。


千冬が絶望的な沈黙に沈もうとした、その時だった。


「……おいおい。わざわざ数学のトップ層に食い込んでまで追いかけてくるとはな。三橋さんの執念、相変わらずお熱いことで」


千冬の前の席で、ずっと肩を震わせて笑いを堪えていた凪冴が振り向き、呆れと感心が混ざったような目で千冬を指差した。


「春休み中、お前が俺の遊びの誘いまでガン無視してた理由、ようやく分かったわ。三橋さんにここまで必死に勉強させるなんて、お前、罪な男だな、千冬」


「違う、凪冴。俺は、本当に受験勉強に集中する環境を作るために――」


「はいはい。お前がそうやって必死に『論理』で壁を作れば作るほど、三橋さんがその壁をあざとくぶち壊してくる。……この三ヶ月、ずっと見てきた光景だけどさ。新学期早々、お前の完敗だな」


凪冴は椅子に反対向きに座り、身を乗り出して隣の少女に手をかざした。


「三橋さん、お疲れ様。千冬の『鉄壁のスケジュール』、今年も初日から崩壊みたいだぞ」


「あ、阿久津先輩! お久しぶりです。ふふ、そうなんです。先輩が数学、数学ってうるさいから、私もちょっと頑張っちゃいました!」


三橋は楽しそうに、凪冴の手にパチンとハイタッチを返した。  


そのまま彼女は、教卓の脇に貼り出された座席表――千冬の名前のすぐ隣に『聴講生:三橋』と特例で印字されたその場所を満足げに指差してから、当然のような顔で隣の席に腰を下ろした。


その一瞬のことだった。  凪冴がぐいっと千冬の方へ顔を寄せ、三橋に聞こえないよう、少しだけ真剣なトーンで声を落とした。


「……よかったな、千冬。三橋さん、お前が忘れた三ヶ月分を、今度は勉強してまで繋ぎ止めに来たんだぞ。お前の右眉が上がるのを、隣で見守る権利を勝ち取ったってわけだ」


「…そうだな」


千冬が諦めたように呟くと、隣に座る三橋は上目遣いに彼を見つめ、いたずらっぽく微笑んだ。彼女の長い睫毛が揺れ、甘いイチゴの香りが、千冬が必死に保っていた論理の防壁をふわりと包み込む。


それから彼女は、わざと身を乗り出すようにして千冬の耳元に顔を寄せた。


「さあ、先輩。記念すべき最初の数学、一緒に頑張りましょうね?」


耳元で囁かれる柔らかな声。前の席でニヤニヤと見守る凪冴の視線。


そんな甘い空気を切り裂くように、鋭い声が飛んできた。


「……朝からずいぶんと騒がしいわね。浅間君、ここは学びの場であって、不純な動機を展示する場所ではないのだけれど?」



廊下側の席から立ち上がり、眼鏡のブリッジを指先で冷ややかに押し上げたのは、白氷だった。一切の無駄を省いたような鋭い視線が、千冬と、その袖を掴む三橋を射抜く。学年次席を維持し続ける彼女にとって、数学の神聖な授業に他学年の女子が私情で入り込むなど、計算外のノイズでしかない。


「あ、白氷先輩! おはようございます。不純だなんて失礼な。私は正当な権利を持ってここに座ってるんですよ?」


三橋が勝ち誇ったように許可証を掲げると、白氷は小さく鼻で笑った。


「権利ね。その権利に見合うだけの力を、あなたが出せればいいのだけれど。浅間君の足を引っ張るようなら、私が容赦なく排除させてもらうわ」


氷のような静寂が走り、千冬が冷や汗を流していると、今度は後ろの席からパンッと快活な音が響いた。


「はいはい、白氷。朝から噛みつくなって。新学期くらい楽しくいこうよ」


千冬の肩を軽く小突いたのは、佐伯だった。 佐伯は三橋のベビーピンクの装いを見て、ふんと口角をわずかに上げる。


「てか三橋さん、やるじゃん。愛の力で飛び級とか、数学の公式よりよっぽど説得力あるわ。浅間、あんたも諦めな。こんな可愛い監視役、他にいないって」


「佐伯……お前まで茶化すな。俺はただ、受験勉強に集中する環境を作りたいだけだ」


千冬が力なく返すと、佐伯は「出たよ」と呆れたように凪冴を見た。


「凪冴、聞いた? こいつまだ環境とか言ってんの。三橋さん、浅間が理屈で逃げようとしたらあたしが後ろから押さえといてあげる。ガンガン攻めちゃいなよ」


「ありがとうございます、佐伯先輩! 心強いですっ」


三橋と佐伯が即座に結託し、白氷が不快げに自分の席に戻って教科書を開く、そして凪冴がニヤニヤとそれを見守る。 逃げ場を失った千冬は、天を仰いだ。


最強のライバルと、最強の味方。 浅間千冬の「平和な受験生活」という数式は、一時間目にして完全に解を失った。

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