いちごのジンクス④
埼京線の深いホームから長いエスカレーターを乗り継ぎ、ようやく辿り着いた大宮駅のコンコース。帰宅ラッシュの足音と駅ナカの喧騒が響く中、二人は自然と足を止めた。
「……じゃあ、俺はこっちだから。……三橋も、気をつけて帰れよ」
千冬が立ち止まり、解散の言葉を口にする。 その瞬間、三橋はゆっくりと千冬の左腕から頭を離し、ずっと摘んでいた袖口を、名残惜しそうに指先で滑らせながら解放した。
「…………」
ふっと、腕から重みが消え、駅構内の乾いた空気がそこを通り抜ける。千冬が何気なく彼女を見ると、三橋はいつもの小悪魔的な笑みを浮かべるでもなく、ただ呆然と、自分の指先を見つめていた。
まるで、温かい魔法が解けてしまったことに気づいた子供のような、頼りなげな横顔。 天井の高いコンコースの照明が、彼女の潤んだ瞳に寂しげな光を落としている。
(……三橋?)
千冬が思わず声をかけようとした、その刹那。三橋はハッとしたように顔を上げると、瞬時にいつもの「あざとい」笑みを顔に貼り付けた。
「……ふふ。急に軽くなって、寂しくなっちゃいました? 先輩」
強がりの混じったその声。けれど、バッグの紐を握りしめる彼女の手は、微かに震えているように見えた。千冬は、その一瞬見せた彼女の「空白」が、電車の中で話していた『春休みの約束』の重みなんだと、痛いほどに理解させられる。
「……三橋、さっきのあの歌。……あれは、その……」
千冬が掠れた声で問うと、三橋は一歩、千冬に詰め寄った。 彼女は千冬の唇の前にそっと人差し指を立てて、その問いを封じ込める。
「ダメです、先輩。答え合わせは、また今度」
駅の雑踏、行き交う人々の波。けれど、二人の間だけは、新宿御苑のあの芝生の上と同じ、甘い結界が張られているようだった。
「……先輩が全部思い出すのが先か。私がもっと『あざとい』ことして、上書きしちゃうのが先か。……勝負、ですね?」
三橋はそう言うと、不意に背伸びをした。 千冬が身構える暇もなく、彼女の唇が彼の耳元に、熱い吐息とともに触れる。
「……今日のイチゴの味、忘れないでくださいね。……おやすみなさい、千冬先輩」
囁きが残像のように耳に残る。 三橋は、顔を真っ赤にして固まった千冬を残し、軽やかな足取りで、けれど一度も振り返ることなく雑踏の中へと消えていった。
三橋の姿が人混みの向こうに完全に消えてから、千冬はようやく、止まっていた肺の空気を大きく吐き出した。耳元に残る彼女の吐息の熱が、駅の乾いた空気にさらされても一向に冷める気配がない。
千冬は一人、自分の路線のホームへと足を向ける。先ほどまで彼女が頭を預けていた左腕は、驚くほど軽くて、そして――ひどく寒かった。
やってきた電車の隅の席に深く腰を下ろすと、千冬は逃げるようにスマートフォンを取り出した。今日起きた非合理な出来事を、自分の中にある「記録」と照らし合わせ、論理的に整理したかったのだ。
彼はメッセージアプリを開き、三橋とのトーク履歴を遡りはじめた。
そこには、彼が意図的に手を付けてこなかった「空白の三ヶ月」が横たわっている。記憶を失ってから今日まで、彼はあえてこの履歴を精査することを避けてきた。自分の中に存在しない記憶の残骸を眺めることは、効率を重視する彼にとって非生産的であり、何より、得体の知れない自分自身と対峙するようで、薄ら寒い拒絶感があったからだ。
だが、今日はもう、そうも言っていられない。
(……おかしい)
画面をスワイプする指が、ある地点で凍りついた。 一月の中旬。学年末考査に向けた学習計画を立てていたはずの時期だ。そこには、三橋からの「先輩、勉強の合間にこれ見て元気出してください!」というメッセージに対し、自分がスタンプ一つで返している記録がある。
だが、その次のメッセージは、二週間も後の二月上旬まで飛んでいた。
(ありえない。三週間も連絡を絶って、あの三橋が追い打ちのスタンプ一つ送ってこないなど……統計的に見て、天文学的な確率だ)
あの執拗なまでのあざとさを考えれば、三週間も沈黙を守るなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。まるで、その期間の彼女の存在だけが、このデバイスから物理的に切り取られたかのような、歪な手触り。
日付の断絶だけではない。メッセージの既読のつき方にも違和感があった。自分が送ったはずの返信のいくつかが、まるで後から誰かが操作して辻褄を合わせたかのように、前後の会話のリズムを無視して配置されている。彼女の何気ない問いかけに対し、自分の返信が三日後に、それも文脈を無視した肯定の言葉だけで返されている箇所。今の彼なら、そんな非効率なレスポンスは絶対にしない。
何より――画像や動画のキャッシュが、ごっそりと消えている。 トーク画面には画像のサムネイルが表示されているのに、タップしてもファイルが存在しませんという無機質なエラーが吐き出されるだけ。まるで、千冬が見る直前に、何者かが証拠を隠滅したかのような。
(……俺が消したのか? それとも、彼女が)
苛立ちと焦燥感に急かされるように、千冬はバッグからワイヤレスイヤホンを取り出し、耳に押し込んだ。外界の走行音を遮断し、さらに画面を遡ると、一通の動画ファイルが奇跡的に再生された。
表示されたのは、雪の降る夜の街角。カメラは激しく揺れ、千冬の首筋から下だけが映っている。
『……先輩、もう一回言ってくださいよ。さっきのやつ』
ノイズ混じりの風の音に混じって、甘く弾んだ彼女の声が耳元で跳ねる。 数秒の、ひどく濃密な空白。 画面の中の自分は、少しだけ俯き、それから何かを堪えるように短く息を吐いて――。
『……断る。一度しか言わないと言ったはずだ』
イヤホン越しに、脳を直接揺さぶるように響いたのは、紛れもなく自分の声だった。 だが、その声は、自分でも聞いたことがないほど優しく、そして、ひどく困ったように震えていた。
「……っ」
千冬は反射的に画面を伏せ、耳からイヤホンを毟り取った。 鼻の奥で、再びあのイチゴの香りがした気がした。 耳元で囁かれた、上書きしちゃうのが先かという挑戦状が、重い残響となって脳内を揺さぶる。
彼女は、何を知っているのか。 そして自分は、何を奪われたのか。
千冬は逃げるようにアプリを閉じ、胸のポケットにあるピスタチオカラーのメモ帳に触れた。そこには、彼女が今日新しく刻んだ名前と、桜のマークがある。
不自然に間引かれたデジタルの履歴とは違う、指先に伝わる紙の確かな質量。
「……勝手にしろ。どうせ俺は、止まるつもりはないからな」
誰にともなく、吐き捨てるように呟いた言葉。それは彼女への宣戦布告か、それとも自分への言い訳か。
窓の外、夜の帳が降り始めた街並みを、千冬はじっと見つめ続けた。 明日からの学習計画は、もう一度立て直す必要があるだろう。 けれど、その計画表のどこかに、あのピスタチオカラーの余白が、消えない汚れのように侵食してくることを、今の彼はもう、否定しきれなくなっていた。




