いちごのジンクス③
三粒目。もはや千冬に拒否権などなかった。口を開かなければ三橋の指が唇を突き続けるし、もたもたしていれば周囲の好奇の視線がさらに濃度を増していく。
「ほら、お兄ちゃんまた食べたよ!」「本当だ、仲良しさんねぇ」
遠くから聞こえる子供と母親の微笑ましい会話。それが今の千冬には、自分の尊厳を削り取る審判の声にしか聞こえない。斜め向こうのベンチでは、カップルがこちらを見てクスクスと笑いながら何かを囁き合っている。きっと、「平日の昼間から何やってるんだあのバカップルは」とでも思われているに違いない。
(……見んな。頼むからこっちを見るな……っ!)
心の中で叫ぶ言葉は、もはや論理的な思考をなしていない。 視界の端で揺れる三橋のピスタチオカラーの袖、鼻をくすぐるイチゴの甘い香り、そして何より、自分に向けられる無数の「温かい視線」。そのすべてが熱病のように千冬の脳をかき乱す。
羞恥心が飽和し、思考が完全にショートする寸前。
千冬は逃げるように参考書に目を落とし、無理やりこの「公開給餌」を終わらせようとした。これ以上続けたら、自分の顔の熱で芝生が枯れてしまうのではないかと本気で危惧するほど、彼の羞恥心は限界に達していた。
「……もう、いいだろ。三粒も食べた。これで最後だ。残りはお前が食え」
「えー、冷たいですよ、先輩。……あと一粒だけ。これが一番、イチゴが立派なんだから」
三橋が保冷バッグの奥から取り出した最後の一粒。それは、今までのものよりも一回り大きく、滴るような果汁を湛えた、まさに「本命」と言わんばかりの輝きを放っていた。
「……三橋、話を聞け。もういらないと言って――」
「先輩、これ……半分だけ、食べてくれませんか?」
三橋は千冬の拒絶を遮るように、囁くような声で言った。 千冬が驚いて顔を上げると、そこにはいつもの小悪魔的な笑みではなく、どこか祈るような、潤んだ瞳で彼を見つめる三橋の顔があった。
「半分……? なぜそんな中途半端なことを」
「いいから。……はい、あーん。これ、特別な一粒なんです」
これまでの執拗な「あーん」で思考能力を摩耗しきっていた千冬は、もはや深く考える気力も残っていなかった。ここで頑なに拒んで彼女に泣き真似でもされたら、それこそ周囲の視線で刺し殺される。 一刻も早くこの状況を脱したい一心で、千冬は差し出された最後の一粒を、なかば自棄になって、半分だけ深く、強く噛み取った。
だが、三橋はピックを引かなかった。 残りの半分がピックに刺さったまま、千冬の唇のすぐ目の前に残される。
「……三橋?」
千冬が怪訝に眉を寄せた瞬間、三橋の顔が、彼の視界をすべて覆い尽くすほど近くに迫った。
「先輩、知らないんですか? 一个のイチゴを、二人で半分こして食べると――その二人はずっと一緒にいられるっていうジンクス」
「なっ……そんな、根拠のない……っ」
「信じないなら、それでもいいですよ。でも、私……これ、半分残しちゃうの、もったいないなって思って」
三橋は袖を掴んでいた手にさらにギュッと力を込める。千冬が反射的に息を呑んだ、その隙だった。
彼女は、千冬の唇のすぐ先に残った「もう半分」を、自らの唇で迎えにいった。
重なる、というにはあまりに一瞬。けれど、互いの吐息が完全に混ざり合い、千冬の唇に彼女の柔らかな熱が、羽毛が触れるような軽やかさで、けれど鮮烈に押し当てられた。
「…………っ!!」
千冬の脳内で、今まで無理やり維持してきた理性が、派手な音を立てて粉々に砕け散った。 三橋は、残りの半分を器用に口に含むと、少しだけ唇を湿らせながら、満足げに微笑む。
「……うん。やっぱり、半分こした方がずっと甘いですね」
「お、お前……っ、今の、は……!」
「ジンクス、完成です。……あ、もしかして先輩。今の、間接キスだって意識しちゃいました?」
三橋は首を傾げ、覗き込む。 千冬はもはや声も出ず、顔面が沸騰したかのように赤く染まり、手に持っていた参考書が、カサリと力なく膝の上に落ちた。
春の新宿御苑。 遠くで笑う子供たちの声も、写生をする老夫婦の視線も、今の千冬にはもう、何も届いていなかった。
夕暮れ時の新宿駅。御苑の芝生の匂いを微かに纏ったまま、二人は埼京線の深いホームへと降りていった。 大宮行きの快速電車に滑り込むと、千冬はドア横のスペースを確保し、三橋を内側に庇うような形で立つ。結局、あの「間接キス」以降、彼はまともに彼女の顔を見ることができていない。
(……ジンクスだの、半分こだの。あいつは一体何を考えて……)
手すりを握る手に力がこもる。カバンの中の参考書は、結局あの後一ページも進まなかった。
「……ふぅ。……疲れちゃいました」
三橋が小さく、けれど千冬の耳元に届くほどの距離で、わざとらしく熱を孕んだ吐息を漏らした。 千冬が反応するよりも早く、彼女は重力に逆らうのをやめたかのように、千冬の左腕にその頭をそっと預けてきた。
柔らかな髪が、千冬のジャケットの袖を掠める。 昼間のイチゴの甘い香りとは違う、彼女のシャンプーの清潔で淡い香りが、電車の不快な空気を一瞬で塗り替えていく。
「……三橋、おい。……離れろ。混んでるだろ」
千冬は小声で、あくまでも「マナー」を盾にして抗議した。だが、彼女は頭を預けたまま、彼の腕にすり寄るように位置を微調整する。
「やだ。……今日は、先輩が私のわがままを『一個だけ』聞いてくれる日、じゃないですか。……春休みの、約束」
(……春休みの、約束?)
千冬は呼吸を止め、泥の中に手を突っ込むような感覚で記憶を探った。三橋が言っているのは、おそらく自分が失った「あの3ヶ月」のことだ。 一緒にでかけることも、そこでわがままを一つ聞くことも、きっとその期間に交わした約束だったのだろう。
千冬には、その時の自分の顔も、どんな声で応じたのかも分からない。けれど、腕に預けられた三橋の頭の重みと、袖を掴む指先の微かな震えが、それが彼女にとってどれほど「本物の約束」だったのかを、残酷なほどに伝えてくる。
「……悪い。俺は、それを覚えていない」
「いいんです。……私が覚えてるから。それに、先輩はちゃんと今日、ここに来てくれましたし」
三橋の声は、いつもの芝居がかったトーンを脱ぎ捨て、ひどく静かだった。 彼女は、彼の腕に自身の体重を完全に預け、さらに空いた方の手で、彼の袖口をそっと指先だけで摘み上げた。
「……先輩の腕、すごく頼もしいです。……これ、私の特等席にしてもいいですか?」
三橋は、頭を預けた角度のまま、上目遣いですら見上げることができないほどの至近距離で、彼の顎のラインをじっと見つめている。 (勝手なやつだ)と吐き捨てたいはずなのに、失った記憶の代償を払わされているような奇妙な義務感と、それ以上に彼女から伝わる確かな熱のせいで、千冬はただ黙って、彼女を支え続けることしかできなかった。
そんな沈黙の中、三橋の唇から、小さな、本当に小さな鼻歌が漏れた。
(…………!)
千冬の背中に、電撃が走った。その旋律を聞いた瞬間、脳裏に一瞬だけ、強烈な色彩がフラッシュバックした。
満開の桜。どこかのベンチ。今の彼女と同じように、自分の腕に寄りかかって、笑いながらこの歌を歌っている――記憶の中の三橋恋羽。
「……三橋、今の……」
千冬が掠れた声で問いかける。その歌が、記憶の扉をこじ開ける鍵であることは間違いなかった。 三橋は、腕に頬を寄せたまま、より深く密着して、独り言のように呟いた。
「……思い出さなくても、いいですよ。でも、忘れないでくださいね。……今の、この温度だけは」
彼女の指先が、千冬の熱を持った「指先」に、そっと、確かめるように絡められた。




