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いちごのジンクス②

 新宿門のゲートをくぐり、一歩足を踏み入れると、そこには都会の喧騒が嘘のような静寂と、春の柔らかな匂いが満ちていた。  千冬は、バッグの底に押し込んだメモ帳の存在を、嫌な重みとして感じながら三橋の背中を追う。


(……どうして、断れなかったんだ)


自分の不甲斐なさを噛み締めるような、静かな敗北感。いつもなら今頃は図書館の自習室にでも行って椅子に座っている時間だ。それなのに、あざとい後輩の言いなりになって、平日の昼間から公園になんて来ている。断るタイミングはいくらでもあったはずなのに、彼女に裾を引かれるたび、その指先の熱にズルズルと引きずられてしまった。


前を行く三橋は、そんな彼の心境などどこ吹く風で、軽やかな足取りで芝生を横切っていく。春の陽光を浴びて、彼女のピスタチオカラーのカーディガンが眩しい。時折振り返っては、「ほら先輩、遅いですよ!」と無邪気に笑いかける彼女を見ていると、自分が抱いているこのモヤモヤすら、彼女には面白がられているような気がしてくる。


(そういえば、朝、駅で待ち合わせた時……)


ふと、記憶の断片が繋がる。出会い頭に「あざとい」と毒づいたあの時、彼女は小さな保冷バッグのようなものを、大事そうに、けれど隠すように抱えていたはずだ。あの時から、彼女はこうして強引に自分を連れ出すことを決めていたのだ。


「春休みなので混んでますね〜!……あ!先輩、あそこ! あの大きな木のそば、日当たり良さそうですよ」


三橋が指差したのは、広大な芝生エリアの隅にある特等席。彼女は手際よくレジャーシートを広げ、千冬を座らせた。


(……まあ、ここで読めばいいか。少しは気分転換になるかもしれない)


千冬はそう自分に言い聞かせると、ようやく思考を切り替えた。  シートの端に腰を下ろし、バッグから取り出したのは先ほど買ったばかりの参考書。都会の喧騒から切り離された静寂の中、ページを捲る指先には心地よい春の風が触れる。


「わ、先輩。そんなに難しい顔して本読まなくてもいいじゃないですか」


三橋が膝を抱えて、じっと千冬の横顔を覗き込んでくる。


千冬は視線を参考書の活字に固定したまま、微動だにせずページを捲るタイミングを伺っていた。しかし、横から注がれる視線があまりに熱く、そして執拗なため、数式の意味が全く頭に入ってこない。沈黙が長く、重く、春の風に混じって彼女の髪の甘い香りが鼻腔をくすぐる。


(……見すぎだ。何が楽しいんだ)


千冬は努めて冷静を装い、無意味にページを一枚捲った。それでも視線は外れない。視界の端に映る三橋の瞳は、まるで彼の思考のノイズを楽しんでいるかのようで、千冬は自分の心拍がわずかに速まるのを自覚せざるを得なかった。  


五秒、十秒。静寂の中に、遠くで遊ぶ子供たちの声だけが響く。


耐えかねて、千冬が眉根を寄せて彼女を睨み返そうとした、その寸前。


「……あ、そうだ。先輩。お勉強の合間に、糖分補給……いります?」


三橋はふっと視線を緩め、バッグの中からあの小さな保冷バッグを取り出した。千冬はそれを見た瞬間、反射的に参考書を胸元へ引き寄せ、わずかに身を引く。


「……いい。三橋、俺は腹は減っていないし、わざわざ外で何かを広げる必要もない。お前が勝手に食べればいいだろ」


冷たく突き放すような言葉。だが、三橋は傷ついた様子も見せず、むしろ「想定内」と言わんばかりに小首を傾げた。


「えー、そんなこと言わないでくださいよ。先輩、さっきから同じページでずっと止まってますし。脳みそが糖分を欲しがってるサイン、私には見えてますから」


「止まってない。……考えてるだけだ」


「じゃあ、考えながら食べればいいじゃないですか。これ、実は朝からちょっとだけ頑張って作ってみたんです。……先輩、意外と甘いもの……嫌いじゃないですよね?」


三橋がゆっくりと蓋を開けると、ワックスペーパーに包まれた、ひと口サイズの『ホワイト生チョコのイチゴ包み』が顔を出した。


「……三橋。これは」


「ブドウ糖は脳のエネルギーになりますし、イチゴの酸味でシャキッとしますよ。本を読みながらでも手がベタつかないように、粉糖パウダーシュガーじゃなくて薄いチョコでコーティングしておきました」


千冬は黙り込んだ。朝の駅で彼女が大事そうにバッグを抱えていた姿。あの時から、彼女はこうして自分の「隙」を突く準備をしていたのだ。丁寧に仕上げられた断面の美しさと、ふわりと漂う甘い香りに、千冬の喉が小さく鳴る。


(……自作か。わざわざ、俺が以前『集中力が切れたら甘いものを摂る』と言ったのを覚えていて……)


頑なだった遠慮が、その「手間」と「合理的な言い訳」を突きつけられたことで、音を立てて崩れていく。


「……分かった。一つもらう。……確かに、これなら片手でつまめそうだな」


千冬が観念したように手を伸ばした、その瞬間。三橋はひらりと手を引っ込め、生チョコをピックで刺して持ち上げた。


「ダメです。手汚れちゃいますし、先輩は参考書、持ったままでいてください。……はい、あーん」


彼女はそれを千冬の唇に触れるほどの距離まで運んでくる。


千冬が驚いて身を逸らそうとした瞬間、三橋は空いた方の手で、彼のジャケットの袖をキュッと、小さく、けれど力強く掴んだ。逃げ道を塞がれた千冬の鼻腔に、イチゴの甘酸っぱい香りと、至近距離にいる彼女自身の甘い体温が混ざり合って流れ込んできた。


「……三橋、近すぎる。……おい、袖を離せ」


「やだ。先輩が食べてくれるまで、絶対離しません。ほら、見てください。チョコが少し溶け出して……今食べないと、私の指、汚れちゃうかもしれませんよ?」


三橋は上目遣いで千冬をじっと見つめ、わざとらしく小首を傾げた。 彼女の指先がわずかに震え、ピックの先の生チョコが千冬の下唇に、ぷにり、と柔らかな感触を残す。


(……くっ、この女……)


ぐいぐい引っ張るのではなく、指先に力を込めて袖を掴んで離さないその仕草は、どんな言葉よりも千冬の足を止めさせる力を持っていた。  周囲には平日の昼下がりを楽しむ家族連れやカップルが点在している。もしここで押し問答を続ければ、余計に目立つ。それを分かっていて、彼女はあえてこの逃げられないシチュエーションを維持しているのだ。


「先輩? ……お口、開けてくれないんですか?」


三橋は、囁くような、けれど極上の甘さを孕んだ声で追い打ちをかける。 袖を掴む彼女の指先から、その体温までもが伝わってくるようで、千冬の理性は音を立てて崩落し始めていた。


「……分かった。……分かったから」


千冬は、諦めたように小さく吐息を漏らした。これ以上拒絶を続けて、彼女にこれ以上甘い声を上げさせるわけにはいかない。周囲の無関係な通行人に、自分たちのこの「茶番」を見せつける時間も、一秒でも早く終わらせるべきだ。


(……一瞬だ。食べてしまえば、終わる)


自分にそう言い聞かせ、千冬はぎこちなく、けれど覚悟を決めて口を開いた。三橋の瞳が、勝利を確信したかのようにキラリと輝く。彼女はさらに一歩、膝が触れ合うほどの距離まで詰め寄ると、震える千冬の唇にゆっくりと生チョコを滑り込ませた。


「……っ」


冷たいチョコの層を噛み砕いた瞬間、中から溢れ出したのは、驚くほど濃厚なイチゴの果汁だった。 イチゴの鮮やかな酸味と、ホワイトチョコの暴力的なまでの甘さ。それが絶妙なバランスで混ざり合い、機能停止しかけていた千冬の脳を強引に覚醒させる。


「……どうですか、先輩? 美味しいですか?」


三橋は袖を掴んだ手はそのままに、期待に満ちた表情で千冬の顔を覗き込む。 千冬は咀嚼しながら、返答に窮した。悔しいことに、美味い。だが、それを認めるよりも先に、彼の肌は別の「熱」を敏感に察知していた。


(……見られている)


御苑ののどかな空気の中、自分たちを取り囲む「視線」が、針のようにチクチクと肌を刺す。  数メートル先で写生をしていた老夫婦が、筆を止めて目を細めながらこちらを眺めている。近くを通りかかった女子大学生のグループからは、「え、ヤバ、あーんしてる……」という、隠しきれていない囁き声が風に乗って届いた。


極め付けは、さらに遠くで走り回っていた子供だ。「ママ見て、お兄ちゃんとお姉ちゃんが仲良ししてる!」という無邪気な断罪。


(死にたい。今すぐこの芝生に穴を掘って埋まりたい……)


千冬は耳の先まで真っ赤に染まり、握りしめた参考書がミシミシと音を立てる。本来なら、自分はここで「知的でストイックな受験生」として風景の一部になっているはずだった。それが今や、あざとい後輩に餌付けされる、滑稽な見世物だ。


「三橋、もういい……。頼むから離せ。目立ってるだろ……!」


「えー? 周りの人なんて、みんな二人のこと応援してくれてますよ? ほら、あのおじいちゃん、ニコニコしてます」


「応援なんて求めてない! ……恥ずかしくないのか、お前は」


「私は平気ですよ。大好きな先輩と、こうして美味しいものを食べてるだけですから」


三橋は事もなげに言い放つと、さらに深く、今度は彼に寄りかかるようにして次の一粒を摘み上げた。


「さあ先輩。見られてるのが恥ずかしいなら、早く食べちゃえばいいんです。はい、あーん」


逃げれば目立つ。拒めば長引く。 千冬は、周囲の好奇の視線から逃れるように、そして彼女の甘い罠にこれ以上溺れないように、半分ヤケクソになって二粒目を迎え入れた。

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