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いちごのジンクス①

三月下旬。終業式を終え、春休みが始まってから数日が経過していた。


本来、この時期の俺にとって「休暇」とは、普段以上に効率的に学習時間を積み上げるためのブースト期間でしかない。自習室に籠もり、綿密に立てた春期学習計画を淡々と消化する。それが俺の正義であり、平穏だった。


規則正しく揺れる車内。千冬は吊り革を掴み、使い込まれた単語帳を凝視していた。だが、視界の端で揺れる柔らかなシルエットが、どうしても神経を逆撫でする。脳裏には、昨夜届いたあざとい通知がノイズのように張り付いたままだった。


『明日新宿行くんですか? 奇遇ですね、私も新学期の準備で行く予定なんです!……あ、もしかして、一緒に行きたいって顔してます?』


その挑発に「勝手にしろ」と返した代償は、想像以上に重かった。


「先輩。さっきから一単語も進んでないですよ?」


すぐ隣から聞こえる、確信犯的な声。  三橋はひょいと首を傾げ、千冬の視界に強引に割り込んできた。


「……もしかして。私がかわいすぎて、見惚れちゃってます?」


「……自意識過剰だ」


千冬は低く突き放したが、その視線は無意識に、隣に立つ少女の輪郭をなぞっていた。今日の三橋は、いつもの着崩した制服とは決定的に違っていた。春の陽気をそのまま形にしたような、淡いピスタチオカラーのカーディガン。その下からのぞく白いブラウスは、鎖骨が少しだけ見える絶妙な開き具合だ。揺れるプリーツスカートが、電車の揺れに合わせて彼女の細いラインを強調し、足元は歩きやすそうな、それでいて女の子らしいショートブーツでまとめられている。


……不備がない。  色彩のバランス、季節感、そして何より「自分に似合うもの」を完璧に理解した、計算ずくの装い。


「……なぜ俺の真隣に当然のような顔をして収まっているんだ」


「だって、先輩が『勝手にしろ』って言ったじゃないですか。だから私、勝手に『先輩の隣』に来ちゃいました。……でも、見惚れてないって言うわりには、耳、ちょっと赤いですよ?」


千冬は逃げ込むように単語帳を強く握り直したが、紙面上の英単語はもはや、三橋の圧倒的な「可愛さ」という非合理な暴力の前で、何の意味もなさなくなっていた。


「……三橋、少し離れろ。パーソナルスペースの侵害だ」


千冬は、自分の肩に触れそうな距離にいる恋羽を、精一杯の冷徹な声で牽制した。だが、彼女は離れるどころか、さらに一歩、その「淵」を詰めてくる。


「えー、だって先輩。埼京線の揺れ、結構すごいですし。……あ、もしかして、私とぶつかるのが怖いんですか? それとも、ドキドキしちゃうから?」


「後者なわけがないだろ。……物理的に不便だと言ってる」


その時、急行待ちの揺れか、あるいは車両の継ぎ目か。電車が大きく右に傾いた。吊り革を掴んでいない三橋の体が、ふわりと千冬の胸元に倒れ込む。


「……危ないから、しっかり掴まっておけ。今お前に怪我でもされたら、俺が悪いみたいになるだろ」


千冬は顔を背け、三橋の肩から手を離そうとした。だが、指先にはまだ彼女の熱が残っている。


「ふふ、やっぱり先輩は素直じゃないですね。……でも、支えてくれた手、結構強かったです」


三橋は離れようとせず、千冬が掴んでいる吊り革のすぐ下、彼の手に触れそうな位置をそっと握った。


「あの、先輩。新宿に着くまでのあと十分だけ……こうしててもいいですか? 一人で立ってるの、やっぱりちょっと疲れちゃって」


三橋は上目遣いでそう言うと、千冬の反応を待たずに、彼の手に触れそうな位置をじっと見つめた。


「……勝手にしろ。ただし、駅に着いたら即座に離れろよ」


「ふふ、了解です。……先輩、意外と優しいんですね」


千冬は、その言葉を無視するために再び単語帳に視線を落とした。だが、脳内は真っ白なエラーを吐き出し続け、ただ心臓の鼓動だけが、英単語のリズムを無視して激しく打ち鳴らされていた。


まもなく新宿、新宿。 無機質なアナウンスが流れ、電車のブレーキ音が空気を震わせる。 ホームに滑り込む直前、それまで千冬の手に触れそうな距離にあった三橋の手が、ぱっと離れた。


「……あ。着いちゃいましたね、先輩」


三橋は、それまでの少し熱を帯びた雰囲気などなかったかのように、くるりと千冬に向き直って微笑んだ。その切り替えの早さに、千冬は自分の鼓動だけが取り残されたような、奇妙な敗北感を覚える。


ドアが開いた瞬間、新宿駅特有の暴力的な人混みが二人に押し寄せた。


「三橋、はぐれるなよ。この混雑だ、少しは周りを……」


言いかけた千冬の言葉は、右腕に伝わった確かな重みによって遮られた。 三橋は遠慮する様子など微塵も見せず、当然のような顔をして千冬の腕に自分の腕を絡めていた。


「……三橋。離れろと言ったはずだ。くっつくな」


千冬は即座に腕を引き剥がそうとしたが、三橋は逆にぎゅっと力を込めて密着してくる。


「えー、無理です。こんなに人が多いのに離れたら、一瞬で迷子になっちゃいますよ。先輩、私を見捨てるつもりですか?」


「袖を掴むなり、鞄の端を持つなり、他に方法はいくらでもあるだろう」


「それじゃ不安なんです。ほら、先輩は黙って私をエスコートしてください。……あ、もしかして、当たってるのが気になっちゃいます?」


三橋は確信犯的な笑みを浮かべ、さらに距離を詰めてくる。千冬は溜息をつき、周囲の視線を避けるように早足で改札へと向かうしかなかった。


新宿の喧騒を抜け、ようやく辿り着いた紀伊國屋書店。  自動ドアをくぐった瞬間に漂う、独特の紙とインクの匂い。千冬にとっては最も落ち着く聖域のはずだが、今の彼には、この書店の静謐な空気がむしろ恐ろしかった。


「……三橋。いい加減に離れろ。ここは静かに本を選ぶ場所だ。お前みたいに騒がしい奴が、腕を組んでうろついていい空間じゃない」


千冬は声を潜めて警告したが、三橋は腕を解くどころか、さらに密着して書棚の間をすり抜けていく。


「えー、私も本選びに来たんですよ? 新学期の準備って言ったじゃないですか。……あ、もしかして、真面目な本屋さんで私と密着してるの、誰かに見られたら恥ずかしいんですか?」


「だから自意識過剰だ。単純に歩きにくいと言っている」


千冬は早歩きでエスカレーターに乗り、目的の学習参考書フロアへと向かった。三橋はその勢いに負けじと、エスカレーターの段差を利用して、千冬の顔を横から覗き込む。


「先輩、そんなに急がなくても、本は逃げませんよ? それとも、早く買い物を終わらせて、私と二人きりになれる場所に移動したいとか?」


「……余計な推測はいい。お前が腕を離さないから、最短ルートを通るしかないだけだ」


フロアに足を踏み入れると、そこには独特の静謐な緊張感が漂っていた。  千冬は周囲の目を避けるように、赤本が積み上げられた棚や、分厚い辞書が並ぶコーナーを縫うように歩く。腕に伝わる三橋の体温と、参考書選びに没頭したい自分の理性が、脳内で激しく衝突していた。


「……あ、あった。数学のコーナーはあっちだ」


目当ての棚は、フロアの最奥だった。三橋を連れたまま、真剣な眼差しで問題集をめくる受験生たちの脇を通り抜ける。すれ違うたび、三橋のピスタチオカラーのカーディガンが、モノトーンな書店の風景の中で浮いているようで、千冬は生きた心地がしなかった。


「……三橋。あまり声を出すな。ここは静かに本を選ぶ場所だ。周囲の迷惑も少しは考えろ」


「はーい。じゃあ、声を出さない代わりに、こうして先輩に守ってもらいますね」


三橋はさらに腕を密着させ、千冬の肩に頭を預けるようにして歩く。 ようやく辿り着いた数学の専門書コーナー。千冬は棚の端から一冊ずつ背表紙を指でなぞり、ようやくその獲物を見つけ出した。


「……いい加減に離れろ。周囲の視線が……その、痛いんだ」


千冬が声を潜めて懇願するが、それは三橋にとって最高の「ご馳走」でしかなかった。 ふと顔を上げれば、三橋のピスタチオカラーの私服姿に目を奪われた男子受験生たちが、その隣で腕を組まれている千冬に対し、親の敵かと言わんばかりの嫉妬の眼差しを向けている。


「えー、みんな先輩のこと羨ましがってるんですよ? 私みたいな可愛い子が、こんなに近くにいるんですから」


三橋は確信犯的に、さらに胸元を千冬の腕に押し当てるように密着させた。 『こんなに可愛い子が、なんであんな理屈っぽそうな奴と……』 周囲の男子たちの心の声が、無言の圧力となって千冬に突き刺さる。千冬はもはや、参考書の内容を確認する余裕すらなく、ただ耳を真っ赤にして視線を棚に固定するしかなかった。


「ほら、先輩。早くしないと、みんなの視線で穴が開いちゃいますよ?」


「……分かっている。だから早く離れろと言っているんだ」


千冬は逃げるように、お目当の参考書を棚から引き抜いた。 この本さえ手に入れば、この地獄のような注目から逃げられる。そう自分に言い聞かせるようにして、彼はレジへと足を速めた。


「わあ、難しそうな本……。先輩、そんなのばっかり読んでて疲れません?」


「これが俺の休息だ。……よし、目的は果たした。早くレジへ行くぞ」


「あ、待ってください! 私も欲しいものあるんです」


三橋が千冬を引いて向かったのは、レジ近くにある、色鮮やかな文房具や手帳が並ぶコーナーだった。


レジへの最短ルートを塞ぐように配置された、色鮮やかな文房具コーナー。  千冬は一刻も早く会計を済ませてこの場を立ち去りたかったが、腕に絡みついた三橋の拘束力は、フロアの奥にいた時よりも強まっていた。


「ねえ先輩、見てください。このメモ帳、お揃いの色で買っちゃいません?」


三橋が手に取ったのは、表紙に上質な素材を使った、くすみカラーのメモ帳だった。


「……必要ない。俺はスマホのメモ機能で事足りている。紙のメモ帳など、検索性が低くて非効率だ」


「……三橋、声が大きい。分かった、受け取るから少し離れろ」


「ふふ、交渉成立ですね。じゃあ、これ私のと一緒に会計しちゃいます!」


三橋は千冬が財布を取り出すよりも早く、自分の小さな財布から手際よく千円札を取り出した。


「おい、三橋。自分の分は自分で払う。……恩を着せられるのは好まない」


「いいえ。これは私からの『強制プレゼント』。先輩はさっきの重たーい参考書だけ、大事に抱えててください」


店員が商品を袋に詰めている間、千冬は逃げ場のないレジ横で、ひどく落ち着かない心地で立ち尽くした。自分だけが会計を済ませていないような、あるいは彼女に完全に手懐けられているような、得体の知れない敗北感がこみ上げる。


「……三橋。あとで代金を返す。あるいは同額の何かを――」


「だーめ。それじゃプレゼントになりません。あ、お返しがしたいなら、今度私の勉強を見てくれるときに、美味しいお茶でも奢ってくださいね?」


三橋はビニール袋を受け取ると、わざわざその中からピスタチオカラーのメモ帳だけを取り出し、千冬の手に直接握らせた。


「はい、これ。……あ、そうだ。先輩。この新しいメモ帳」


三橋は、千冬の指先がメモ帳に触れた瞬間、その上から自分の手を重ねるようにして固定した。レジ待ちの客たちが「仲のいいカップルだな」という、あるいは千冬への猛烈な嫉妬を孕んだ視線を投げかけてくるが、三橋はそれを楽しむようにして囁く。


「最初のページに、私の名前、書いてもいいですか?」


「……なぜお前の名前を書く必要がある。これは備忘録のためのツールだ」


「だって、先輩が勉強中、無意識に私の名前を『試し書き』しちゃわないように。あらかじめ私が書いておいてあげます。……それとも先輩、本当は自分で書きたい派、でした?」


「……そんな下らない試し書きをする予定はない。……わかったよ、好きにしろ」

千冬はもはや、重なる三橋の手の熱と、周囲からの刺すような視線に耐えかね、半分投げやりな返事を吐き出した。


「やった。じゃあ、世界に一冊だけの特別なメモ帳にしちゃいますね」


三橋は満足げに鼻歌を歌いながら、ようやく千冬の腕を解放した――かに見えたが、店を出るために自動ドアへと向かう彼の裾を、今度は指先でちょんと摘んで離さない。


千冬は何も答えず、手の中にあるメモ帳をじっと見つめた。


返そうという意思でも、捨てるという拒絶でもない。ただ、自分の日常に放り込まれた異物を、どう位置づけていいか分からない戸惑い。自動ドアをくぐると、新宿の喧騒と共に、少しだけ湿り気を帯びた春の風が吹き込んでくる。


(よし、本は買った。用件は済んだはずだ。……あとは自習室へ戻って――)


駅の方角へ足を向けようとした、その時。 三橋がひらりと千冬の前に回り込み、スマートフォンの画面を突きつけた。そこに表示されていたのは、新宿御苑の入園予約完了通知。


「サプライズです! さっき先輩が数学の棚で悩んでる間に、こっそりペア枠で取っちゃいました。入園まであと十五分。……断ったら、私の予約、無駄になっちゃいますね?」


千冬は言葉を失った。学習計画が、自習の時間が、頭の中で音を立てて崩れていく。


(……なぜ御苑なんだ。なぜこのタイミングで。……そもそも、いつの間に)


反論しようと口を開きかけたが、三橋はすでに千冬の手をぐいっと引き寄せ、駅とは真逆の方向へと歩き出していた。


「ほら、先輩。せっかくの春休みなんですから。……ね?」


振り返った彼女が浮かべたのは、拒絶を許さないほど完璧で、あざとい笑顔。千冬は、指先にあるメモ帳と、目の前で揺れるピスタチオカラーの背中を交互に見比べ、肺の空気をすべて吐き出すような溜息を一つついた。


都会のオアシスへと連行されていくその足取りは、もはや千冬の意志ではなく、彼女の描く「あざとい予感」に支配されていた。


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