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相合傘のジンクス②

脳内で大まかな地図を描き、俺は思わず足を止めて彼女を二度見した。ここから、彼女の言っているであろう公園はかなり距離がある。しかもバスを使わず、この激しさを増した雨の中をわざわざ歩くというのか。しかも、すでに駅から遠ざかる方向へ歩き出そうとしている。


「非効率」の極致。 普段の俺なら、即座に却下して即帰宅を選んでいただろう。けれど、それを提案した彼女は、春の陽だまりのような笑顔を浮かべ、さも当然のことのように俺を見つめている。


雨脚は一向に弱まる気配を見せない。傘の縁から滴る水滴が、アスファルトに激しい飛沫を上げ続けている。


「……本気か。ここからあそこまで、雨の中歩けば三十分近くかかるぞ」


「いいじゃないですか。雨の日は時間がゆっくり流れるって、誰かが言ってましたよ?」


三橋はそう言って、俺の腕を引いて軽やかに一歩を踏み出した。  俺は小さく溜息をつき、結局、その足取りに合わせるように一歩を踏み出した。


駅に向かう人の流れに逆行するように、俺たちは西口側の静かな住宅街へと足を進めた。大通りを一本外れると、途端に雨音だけが支配する静寂が訪れる。雨粒がアスファルトを叩く単調なリズムと、傘のビニール越しに響く「パラパラ」という軽い音。


三橋を濡らすまいと傘を傾け続けているせいで、俺の左肩はもう完全に重く、冷たくなっていた。けれど、右側から伝わってくる彼女の体温が、驚くほど熱を帯びて俺の神経を逆撫でする。


すれ違う人も車も、もういない。街灯がまばらに点り始めた薄暗い路地裏で、俺たちの足音だけが水たまりを弾いて規則正しく響く。


「……先輩、やっぱり左肩が濡れてます。もっとこっちに来てください」


三橋が足を止め、俺の顔を覗き込む。俺を濡らすまいと傘を傾け直そうとした俺の手を、三橋が下から包み込むようにして止めた。


「……気にするなと言っただろ。お前を濡らすわけにはいかない」


「それじゃダメなんです。先輩が風邪を引いたら、明日から誰が私に勉強を教えてくれるんですか? それこそ『非効率』じゃないですか」


三橋はいたずらっぽく笑うと、俺の腕を強引に自分の方へと引き寄せた。抗う間もなく、俺の右半身に、彼女の柔らかな体温としなやかな重みがしっくりと収まった。


一本の折り畳み傘。その狭い天蓋の真下に、二人の体がぴったりと密着する。俺の左肩が雨粒から解放される代わりに、二人の肩と二の腕は、歩くたびに逃げ場なく押し付け合わされることになった。


「……三橋、これじゃあ歩きにくいだろ」


「え? 私は全然。むしろあったかくて、ちょうどいいですよ?」


彼女は俺の腕を抱え込むようにして、さらに一歩、歩調を早めた。  雨音に守られたこの至近距離では、彼女が呼吸するたびに揺れる肩の動きや、少しだけ早まった俺の鼓動まで伝わってしまいそうで気が気じゃない。


目的の公園までは、まだ半分以上ある。二人とも濡れずに済むという「最適解」を選んだはずなのに、俺の脳内は、雨に濡れるよりもずっと激しい熱に浮かされ始めていた。


「……なあ。お前、さっきから楽しそうだな」


雨音に負けないよう、少しだけ声を落として問いかけると、三橋は俺の腕に頬を寄せる勢いで顔を近づけてきた。


「分かっちゃいます? 実は私、あの公園大好きなんです。名前が同じだから、小さい頃から勝手に『私の庭』だと思ってたんですよ」


「……ずいぶん広い庭だな。固定資産税が大変そうだ」


「もう、すぐそういう夢のないこと言う! でも……」


三橋は少しだけ歩調を緩め、雨に霞む先を見つめた。


「その『三橋の庭』に、誰かを招待するの……実は、先輩が初めてなんです」


さらりと言葉が紡がれる。けれど、その響きには雨の湿り気よりもずっと重い熱がこもっていた。


「……光栄だな」


俺は視線を正面に固定したまま、短く応じた。動揺を悟られないよう、努めて無機質な声を出す。


「ふふっ、棒読みですよ先輩。……でも、嬉しいな。今の学年がもうすぐ終わって、先輩が『受験生』っていう別の世界に行っちゃう前に、どうしても招待しておきたかったんです。……『三橋恋羽』を、忘れないように」


彼女は俺の腕を抱え込む手にギュッと力を込めた。右側から伝わってくる、彼女の心臓の鼓動。それが雨のリズムと重なり、俺の脳内にあるはずの「冷静な思考回路」を容赦なくかき乱していく。


「……忘れるわけないだろ。お前みたいな計算外の生徒、他にいない」


「……『生徒』、ですか。今は『相合い傘のパートナー』ってことで、上書きしちゃダメですか?」


三橋がいたずらっぽく、けれどどこか祈るような瞳で俺を覗き込む。  そんな、答えに窮するような会話を繰り返しているうちに、気づけば俺たちは目的地の入り口に差し掛かっていた。


「三橋総合公園」と刻まれた石柱が、雨に濡れて鈍く光っている。  三十分近く歩いてきたはずなのに、体感としてはその半分にも満たない。彼女の体温と、その言葉の熱に当てられて、俺の距離感覚はすっかり狂わされていた。


「……着いたな。三橋、もう腕を離しても――」


「あ、見てください先輩! あそこ!」


俺の言葉を遮って、三橋が傘の中から身を乗り出すようにして指を差した。街灯の淡い光に照らされた、一本の若い桜の木。激しく叩きつける雨に耐えるように、その枝先には、固く結ばれた幾つもの蕾が、ほんのりと赤みを帯びて震えていた。


「……本当だ。まだ、咲いてないんだな」


「はい。でも、あんなに一生懸命、雨に耐えて……。次にお天気が良くなった時には、きっと一気に咲いちゃいますよ」


三橋は、俺の腕を掴んでいた手を解くと、濡れないように、控えめに、そっと桜の蕾ほうに手を伸ばした。 腕から離れていった彼女の熱。その瞬間、急激に左肩の冷たさと、春の雨の寒さが俺の肌を突き刺した。


三橋は蕾を愛おしそうに見つめたまま、独り言のように、けれど確かな意志を込めて言葉を紡ぐ。


「ねえ、先輩。約束してください」


彼女が振り返る。街灯の光を背負ったその表情は少しだけ影になっていたけれど、潤んだ瞳だけが真っ直ぐに俺を捉えていた。


「今年だけじゃなくて。来年も、その次も……。桜が咲いたら、こうして一緒に見に来てくれますか?」


それは、実質的な告白に近い響きを持っていた。「来年」ということは、俺が大学生になっても、彼女が受験生になっても、その先もずっと隣にいてほしいという、あまりに「非効率」で、あまりに重い、一生ものの縛り。


「……三橋。俺は受験生になるんだぞ。来年の今頃なんて、合格発表でそれどころじゃないかもしれない」


「効率とか、理屈の話をしてるんじゃないんです。……私の我が儘に、付き合ってほしいんです」


三橋は、俺の右肩にこてんと頭を預けた。再び傘の中へ、彼女の香りが濃く満ちる。傘を叩く雨音のすぐそばで、彼女の柔らかな髪が俺の首筋をくすぐった。


「……だめ、ですか?」


雨の音にかき消されそうなほど小さな、けれど俺の鼓動を止めるには十分すぎるほどの破壊力を持った問いかけ。


(……ズルいのは、やっぱりお前の方だ)


俺は視線を蕾へと逸らし、雨に濡れた吐息を一つ吐き出した。


「……努力はする。お前が、来年の今頃も俺に教わりたいなんて奇特なことを言っていれば、の話だが」


「あはは! 先輩、それ絶対ですよ! 言質取りましたからね!」


三橋はパッと顔を輝かせると、また俺の腕にギュッとしがみついてきた。戻ってきた体温が、冷え切った左肩までじわじわと溶かしていく。


「じゃあ、桜が満開になったら、ね。……約束ですよ、千冬先輩」


不意に名前を呼ばれた衝撃が、心臓の奥を直接叩いたような気がした。  俺は何も言い返せず、ただ傘の柄を握り直すことしかできない。


雨は、相変わらず容赦なく降り続いている。だが、一本の傘に閉じ込められたこの小さな空間だけは、春を待つ蕾のような、静かで濃密な熱に満たされていた。


俺の腕をギュッと抱え込み、幸せそうに目を細める彼女。先ほどまでの冷たさは嘘のように消え去り、右側から伝わってくる彼女の体温が、俺の全身をじわじわと、心地よく溶かしていく。


「非効率」な遠回りの果てに、俺たちは何よりも確かな「答え」を、この雨の中に刻みつけていた。


明日には、この雨も上がるだろう。そして次に太陽が顔を出す頃には、この蕾たちも一斉に色づき始めるはずだ。


俺たちはどちらからともなく、再びゆっくりと歩き出した。水たまりを弾く二人の足音は、雨音に溶け込みながら、いつまでもどこまでも重なり合っていた。

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