相合傘のジンクス①
放課後の喧騒が一段落した頃、空からは重い春の雨が降り出していた。つい先ほどまで部活動の掛け声が響いていたグラウンドは、みるみるうちに鈍色の水たまりに覆われ、乾いたアスファルトが濃い灰色に染まっていく。雨粒が校舎の窓を叩く音は規則正しく、どこか急き立てるような冷たさを孕んでいた。
校門付近には、帰り急ぐ生徒たちが広げた色とりどりの傘の花が開いている。その鮮やかさが、かえって三月の終わりの、どこか落ち着かない寂寥感を際立たせていた。
俺は昇降口の段差で足を止め、湿り気を帯びた風を肺に吸い込んだ。隣には、同じように足を止めた三橋が立っている。いつもなら饒舌な彼女も、今はただ、降り頻る雨を黙って見つめていた。
「あちゃ……。傘、家に置いてきちゃいました」
三橋が、困ったように眉を下げて空を見上げた。湿気を含んだ空気が、彼女の柔らかな髪を少しだけ重く見せている。その肩には、昨日俺が贈ったあの桜色のシャープペンシルが入っているであろうバッグが、壊れ物を扱うような手つきで大切そうに抱えられていた。
「……まあ、予報にもなかったしな。いきなりだったし、仕方ないだろ」
俺はバッグの底で眠っていた、無機質な黒い折り畳み傘を掴み出した。だが、それをすぐに開くことはできなかった。手が、わずかに止まる。
――チュッ。
(右頬にはまだあの感触が残っているっていうのに……)
脳裏に、あの夕暮れの公園の景色が蘇る。 潤んだ瞳で俺を見つめ、不意に背伸びをして触れてきた、彼女の唇の柔らかさと熱。勝利を確信したような、あの小悪魔的な笑顔。
(この至近距離は……正直、正気でいられる自信がない)
一度は傘をバッグに戻そうとした。しかし、隣で所在なげに、少し寒そうに肩をすくめて雨を見つめる三橋を放っておけるはずもなかった。
(……いや、ここで貸さない方が不自然だ。これはただの善意だ。他意も、下心も、動揺も……一切ない。そう、ないはずだ)
自分でも呆れるほど必死な自己暗示を脳内で完結させると、俺は意を決して、雨の中に傘を弾くように広げた。
「……入るか。駅までなら、これで十分だ」
努めて無表情を装い、彼女に傘を差し出す。すると、三橋はそれまで沈んでいた表情を一変させ、パッと花が咲いたような笑顔で俺を振り返った。
「えっ、いいんですか!? ……わあ、ありがとうございますっ! 先輩、実は傘持ってきてくれてるんじゃないかなって、ちょっとだけ期待してたんです!」
「……っ。期待とか、そういうのはいいから早く入れ。濡れるだろ」
「えへへ、失礼しまーす!」
三橋が嬉しそうに、弾むような足取りで傘の下へと潜り込んでくる。 一気に縮まった距離。一本の傘の中に閉じ込められた二人の空間は、周囲の雨音にかき消されて、外の世界から完全に切り離されたように静かだった。
「……行くぞ」
俺たちは並んで、駅へと続く緩やかな坂道を歩き出した。 水たまりを避けるように、自然と二人の歩幅が重なる。アスファルトを叩く激しい雨音が、隣を歩く彼女の吐息まで間近に感じさせた。
「……おい、もっと中に入れ。お前のバッグ、濡れてるぞ」
「あ……はい。すみません」
三橋がさらに一歩、俺の方へと寄り添ってくる。肩と肩が触れ合うのはもはや必然だった。彼女の髪から漂う柔らかなシャンプーの香りが、雨の匂いに混じって鼻腔をくすぐる。
(……近い。近すぎる)
俺は平静を装いながら、傘を握る手に力を込めた。 三橋を雨粒から遠ざけようと意識するあまり、気づけば傘の中心は完全に彼女の方へとズレていた。俺の左肩には、容赦なく雨が打ちつけ、制服の生地がまたたく間に色を変えていく。
冷たいはずの雨。けれど、右側から伝わってくる彼女の体温のせいで、不思議と寒さは感じなかった。むしろ、触れ合っている肩の境界線から、全身が熱くなっていくような錯覚すら覚える。
自分でも驚くほど無防備に、俺は自分の半身を雨に差し出していた。 それがどれほど不格好で、どれほど「彼女を特別扱いしている」証拠なのか。その時の俺は、まだ自覚していなかった。
「……先輩、傘。私の方に寄りすぎじゃないですか?」
ふいに、隣を歩く三橋が足を止め、俺の顔を覗き込んできた。
「あ!先輩の左肩、びしょ濡れじゃないですか……!もっと、自分の方に入れてください」
「……別に、これくらいどうってことない。お前が風邪を引いたら、今後の学習効率に支障が出るだけだ」
「もう、本当に……素直じゃないんだから!効率とか関係なく、冷たいのは嫌ですよ」
三橋は呆れたように、けれどどこか愛おしそうにくすくすと喉を鳴らした。 そして、俺が反応するよりも早く、空いている方の手で俺の右腕の袖をぎゅっと掴んだ。
「……っ、お前、何して……!」
「相合い傘なんだから、離れたら濡れちゃいます。……それに、先輩。もうすぐ今の学年が終わって、先輩は受験生になっちゃうんですよね」
三橋は俺の腕を掴んだ手に、少しだけ力を込めた。
「そうなったら、きっと今までみたいに、放課後ゆっくり教わったり……こうして一緒に帰ったりする時間も、少なくなっちゃうのかなって。……そう思ったら、少しだけ、今のうちに我が儘になりたくなっちゃいました」
三橋は少しだけ顔を上げ、俺の横顔を覗き込んできた。 雨の雫が傘の縁から滴る中、彼女の瞳はどんな宝石よりも眩しく、それでいて今にも消えてしまいそうな危うさを持って揺れている。
「……先輩。この雨、駅に着くまでに止まなかったら……もう少しだけ、遠回りして歩いててもいいですか?」
三橋の問いかけに、俺はすぐには答えられなかった。 左肩はもうすっかり冷え切っているはずなのに、右腕に絡みつく彼女の体温だけが、熱病のように身体中に回っている。
「……遠回りなんて、非効率だろ。それに、風邪を引いたらどうする」
「あはは、やっぱりそう言われると思いました。……でも、先輩、知ってますか?」
三橋が腕を絡めたまま、さらに一歩、俺との距離を詰めてきた。 傘を叩く雨音が、まるで鼓動のように激しく響く。
「……何をだ」
「相合い傘で、一回も肩を離さずに歩ききった二人には……『離れられない魔法』がかかるっていうジンクスがあるんですよ。……あ、これは私が今作ったんですけど!」
三橋はそう言って、悪戯が見つかった子供のように舌を少しだけ覗かせた。いつもの彼女らしい調子だ。そう思って、俺が何か言い返そうとした時――彼女が腕を掴む手に、さらにぎゅっと力がこもった。
ふざけている時の軽やかさは消え、雨音に混じる彼女の吐息が、急に熱を帯びたように重くなる。三橋は顔を伏せ、俺の濡れた左肩に視線を落としたまま、独り言のような低い声で続けた。
「……本当は、ジンクスなんてどうでもいいんです。ただ、怖いんですよ。先輩がどんどん先に行っちゃうのが」
雨脚が強まり、傘を叩く音が激しさを増す。その騒がしさが、今の俺たちの間にある沈黙を、かえって残酷なほど鮮明に際立たせていた。
「先輩が受験生になって、どれだけ忙しくなっても。新しい学年になって、お互いの周りがどれだけ変わっても……。この雨の中で、こうしてぴったりくっついて歩いたことだけは、先輩の心にちゃんと『上書き』しておきたいんです。……だめ、ですか?」
覗き込んでくる彼女の瞳は、雨の雫を反射して、吸い込まれそうなほどに潤んでいた。ホワイトデーのあの瞬間と同じ。彼女はいつだって、俺の理屈が追いつかない速さで、心の最深部まで踏み込んでくる。
(……ズルいのは、どっちだ)
俺は小さく溜息をつき、傘の柄を握り直した。そして、自分でも驚くほど素直な声で、隣を歩く彼女に応じる。
「……勝手にしろ。ただし、風邪を引かない程度の距離だ」
「えへへ、やったあ!……じゃあ、あっちの公園の方から帰りましょう? 桜の蕾、もうすぐ咲きそうなんですよ」
差し出された小さな我儘を、俺は突き放すことができなかった。水飛沫を上げる車の音も、遠くで響く喧騒も、今の俺たちの間には届かない。ただ、傘を叩く雨音だけが、二人の鼓動を急かすように鳴り続けていた。




