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ホワイトデーのジンクス③

 俺は、自分の服の袖を掴んだまま震えている彼女を、ただ見下ろすことしかできなかった。 周囲を通り過ぎる生徒たちが、怪訝そうにこちらを伺っている。これ以上ここにいるのは、彼女にとっても良くないだろう。


「……場所、変えるか」


俺の言葉に、三橋は小さく頷いた。


数分後。夕暮れに染まった近くの公園のベンチに、俺たちは並んで座っていた。三橋は膝の上にあるバッグをじっと見つめ、まだ赤くなった目元を時折指先で拭っている。


「……開けても、いいですか?」


消え入りそうな声で三橋が尋ねた。俺が「ああ」と短く返すと、彼女は慎重にバッグの封を解いた。


中から出てきたのは、佐伯が「絶対に外さない」と太鼓判を押した人気ブランドの華やかな焼き菓子セットだ。だが、三橋がそれ以上に目を留めたのは、その横に添えられた、小さな別の包みだった。


「これ……」


彼女がその包みを開けると、中から現れたのは、淡い桜色の軸をした一本のシャープペンシルだった。 有名メーカーの、少しだけ高価な、書き味にこだわったモデルだ。


三橋はそれを見た瞬間、息を呑んで動きを止めた。


「……これ、私の筆箱の色に合わせてくれたんですか? 先輩、私のこと、ちゃんと見ててくれたんだ……」


「……数日前の勉強中、お前が手が疲れると言っていただろう。その時、お前が持っていた筆箱の色にこれが合うんじゃないかと……。佐伯と別れたあと、どうしてもそれだけじゃ足りない気がして、店に戻って選んだ」


実際は、どの色が彼女の筆箱に合うか、文房具売り場の棚の前で三橋の持ち物を必死に思い出しながら、30分くらいフリーズしていたのだが……それは言わなくていい。


三橋はそのシャープペンシルを、壊れ物を扱うようにそっと指先でなぞった。


「私……先輩にとっては、今の私はただの後輩で、勉強を見るのもただの義務みたいに思ってるのかなって、ずっと思ってて」


三橋の声が、また少し震え始める。


「でも、これ……あんなに真剣にプレゼントを選んでくれて、私の言ったこと、ちゃんと見ててくれたんだってわかったから……。なんだか、昨日あんなに泣いたのが、すごく恥ずかしくなってきました」


「……悪かった。リマインダーで思い出すような、不備のある先輩で」


「ふふっ……本当に、理屈っぽい謝り方ですね」


三橋がようやく、顔を上げた。 まだ目は潤んでいるし、頬には涙の跡が残っているけれど。 その口元には、昨日から一度も目にすることができなかった、柔らかく、少しだけ照れくさそうな笑みが浮かんでいた。


「大切に使います。……これを使って、もっともっと勉強、頑張りますから」


「ああ。期待している」


三橋は手元のシャープペンシルをもう一度見つめた後、何かを言いかけ、また視線を落として自分の膝の上で指を絡めた。


「……あの、先輩」


「なんだ」


「昨日のこと……。私、あんなにひどいこと言っちゃって」


三橋の声が、先ほどよりも小さく、申し訳なさそうに低くなった。彼女は自分の指先をいじりながら、思い切ったように顔を上げる。


「先輩のこと、大嫌いなんて……思ってもないこと、叫んじゃいました。ごめんなさい……っ。本当は、全然そんなこと、ないのに……」


言い終えると同時に、彼女は耳まで真っ赤にしてまた俯いてしまった。


俺は少しの間、沈黙した。 彼女にそこまでの言葉を吐かせてしまうまで、俺は彼女が抱えていた不安に無頓着だった。その重みを改めて突きつけられた気がした。


「……気にするな。お前にそんなことを言わせるまで、俺が何も見ていなかったのが悪いんだ。……すまなかった」


「でも……」


「……ただ、嫌いと言われても、俺がお前を放っておくことはない。これからも、今まで通りお前を見るつもりだ。……それでいいか?」


俺がそう言うと、三橋は俯いたまま、消え入りそうな声で「……本当、ズルいですよっ……」と呟いた。


「……?なんかいったか?」


「……ふふっ。なんでもないでーすっ!」


三橋は今度こそ、涙の跡が残った顔で、いたずらっぽく少しだけ笑った。 その表情を見て、俺はやっと、止まっていた時間が動き出したような気がした。


すると、三橋は膝の上で桜色のペンをぎゅっと握りしめ、ふと思い出したように俺の顔を覗き込んできた。


「……そういえば先輩、知ってますか? ホワイトデーにキスしたカップルは、ずっと一緒にいられるっていうジンクスがあるんですよ」


「……なんだそれは。聞いたこともないが」


「えへへ、あるんです。……私、昨日あんなに悲しい思いをして、一日中泣いてたんですから」


三橋は一歩、俺の方へ踏み出してきた。潤んだ瞳が、まっすぐに俺を捉える。その頬は、夕焼けのせいだけではなく、林檎のように赤くなっている。


「お詫びに、キス……してください。そうすれば、昨日の悲しい思い出も、全部上書きして、これからもずっと一緒にいられる気がするから……だめ、ですか?」


「……っ」


俺は息を呑んだ。至近距離で見つめてくる彼女の熱量に、心臓が爆音を立てる。だが、俺の脳内の理性が必死にブレーキをかけた。


「……三橋。それは、その……まだ、ダメだろ。俺たちはまだ、付き合っているわけじゃないんだから。そういうのは、順序というか、ケジメが必要で……」


「……え」


俺が視線を泳がせながら、必死に「正論」を盾にヘタレた言い訳を並べると、三橋がふっと、いたずらっぽく目を細めた。


「……もしかして先輩、ヘタレてます? それとも、私と付き合わないとキスできないくらい、私のこと意識しちゃってます?」


「意識とか、そういう問題じゃなくて……っ!」


「もう、いいです。待ちきれないので」


三橋はくすくすと笑うと、俺がこれ以上の拒絶を口にする前に、ふわりと身体を寄せてきた。


――チュッ。


柔らかな感触が、俺の右の頬に一瞬だけ触れた。


「……っ! お前……!」


「これで、ジンクスの半分は成立です。付き合ってないから、今日はこれだけ。悲しい思い出、上書き完了!」


三橋は顔を真っ赤にしながらも、勝利を確信したような小悪魔的な笑みを浮かべた。俺は熱くなった頬を押さえ、言葉を失って彼女を見つめることしかできなかった。


「……これを使って、これからもずっと、私の隣で勉強教えてくださいね。……約束ですよ、千冬先輩」


不意に名前で呼ばれ、俺はまた言葉を詰まらせた。


――その瞬間。 夕暮れの景色が、一瞬だけ別の景色と重なった。


(千冬……先輩……!)


頭の奥で、誰かがとびきりの笑顔で俺の名前を呼ぶ声が響いた。 それは今の三橋の声よりも、もっと少し、幼くて、けれど弾けるような明るさを持った響きで。


(これ……! ……私のとっておきですっ!)


差し出された、小さなチョコレートの包み。 それを受け取った瞬間の、胸が締め付けられるような温かさと、自分に向けられた夕日よりも眩しい笑顔。


「……っ!」


強烈な耳鳴りとともに、景色が元に戻る。 俺は自分の頭を片手で押さえ、荒くなった呼吸を整えようとした。


「先輩……? どうしたんですか? 顔色、悪いですけど……」


三橋が、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。 先ほどのフラッシュバックは、ほんの一瞬のこと。だが、その残像は、俺の胸の奥に淡い熱を持ったまま消えなかった。


(今のは……、記憶? ……事故の前の?)


だが、その記憶の中の主が誰だったのか、俺にはまだ、判別がつかなかった。 ただ一つ確かなのは、俺が記憶を失う前、誰かの「とびきりの笑顔」を、この手で受け取っていたということだけ。


「……いや、なんでもない。……ただ、少し、立ち眩みがしただけだ」


「もう、無理しないでくださいね。……約束、忘れたら怒りますから」


三橋はまだ少し心配そうだったが、俺の言葉を信じて、もう一度、柔らかく笑った。 その笑顔は、先ほどのフラッシュバックの「誰か」とは違い、今はただ、目の前の俺だけを見ている。


(……俺は、この笑顔を守る。……たとえ、失った記憶の中に、どんな過去があったとしても)


俺は熱くなった右の頬を一度だけ手でこすり、三橋に向き直った。


「ああ。……わかった」


夕暮れの公園。桜色のペンを宝物のように抱え、少しだけ背伸びをした恋羽の笑顔は、どんなプレゼントよりも眩しく、俺の胸に深く刻み込まれた。

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