ホワイトデーのジンクス①
テストが終わっても、俺たちのルーティーンは大きくは変わらない。 放課後の図書室、窓から差し込む夕日は少しずつその色を濃くし、春の気配を運んできている。
「……よし、今日の分はここまでだな」
俺が参考書を閉じると、向かい側で英単語帳と格闘していた三橋が「ふぇ〜」と気の抜けた声を上げて机に突っ伏した。
「お疲れ様です、先輩……。もう、脳みそがパンパンですよ」
「よく頑張ったな。三橋、最近集中力がついてきたし、この調子なら次の実力テストも期待できるぞ」
「本当ですか!? えへへ、先輩に褒められるとやる気出ちゃいますね」
三橋は机に顎を乗せたまま、上目遣いで俺をじっと見つめてくる。そして、何かを言い出すタイミングを測るように、自分の唇を指でぷにぷにと突き始めた。
「……ねえ、先輩。明日って、放課後どうします? 何か……その、特別な予定とか、あったり……しちゃいます?」
彼女はわざとらしく小首を傾げ、机の下で足をパタパタと揺らしている。その視線は期待に満ちていて、まるで「ほら、気づいて?」と無言で訴えかけてくるような、確信犯的なあざとさがあった。
俺はそんな彼女の様子を「よっぽど勉強に疲れてるんだな」と脳内で処理し、ごく自然に、迷いのないトーンで言葉を返した。
「明日の放課後だけどさ、三橋。少し早めに切り上げてもいいか?」
図書室に夕日が差し込む中、俺は参考書を閉じながらそう切り出した。
「!……えっ、早めに切り上げる? はい、全然いいですけど……!……もしかして先輩、どこか行きたいところがあるんですか!?」
三橋の顔がパッと輝き、勢いよく身を乗り出してくる。上目遣いの瞳をキラキラと揺らし、完全に「サプライズなお出かけ」を確信して期待に胸を膨らませている顔だ。
「ああ。明日、予約してた参考書の発売日なんだ。学校の帰りに本屋に寄りたいから、明日は早めに帰ろうと思ってさ。3月14日って、なんか中途半端に店が混むイメージあるし」
「…………。……本屋、ですか。あはは、勉強熱心ですね、先輩。3月14日に、わざわざ、参考書……」
三橋の表情がみるみるうちにフリーズしていく。さっきまでのあざとい可愛さはどこへやら、頬がぴくぴくと引き攣り、瞳から光が消えていく。
「明日の分の予習は、俺が今日寝る前に家でやっておくから。三橋も、明日は図書室に来ないで、家でゆっくり休んでくれ」
「……はい、わかりました。先輩も、新しい参考書、頑張ってくださいね。……あ、明日のラッキーアイテムは『お菓子』ですよ、多分。それも、女の子が『これセンスいいな』って思っちゃうような、ちょっといいやつ!」
「お菓子? 腹減ってんのか? じゃあ、明後日会った時に何かやるよ。明日、本屋の帰りにでもコンビニで適当に買っておくからさ。チョコとかでいいか?」
「………………もういいです! 先輩のバカ! 先に帰りますから!」
三橋は膨れっ面で荷物をまとめると、ガタッと派手な音を立てて椅子を引き、足早に図書室を出ていってしまった。
(……なんだ、急に。昼休みに変なものでも食べたのか? それとも、糖分不足で情緒が不安定になってるのか……?)
女子の情緒は難しいな、なんて溜息をつきながら、俺も帰り支度を整えて後を追う。 校門を出たところで三橋の背中が見えたが、彼女は一度も振り返ることなく、足早に駅の方へ消えていった。
いつもなら「先輩、パフェ!」なんて騒がしい帰り道が、今日は妙に静かだ。 駅のホームで一人、電車を待つ。 夕闇が迫るホームの冷たい空気の中で、俺はぼんやりと明日のスケジュールを反芻していた。
(本屋に寄って、そのあと家で英語のプリントを……)
ふと、明日のタスクを整理しようとスマホを開いた。 カレンダーの予定を確認しようとした瞬間、画面に設定した覚えのないリマインダーが、赤い警告のように浮き上がった。
『3月14日:三橋にホワイトデー。絶対に忘れるな。借りを返すチャンス』
「…………っ」
静かなホームで、肺の空気が全部漏れ出すような変な声が出た。 スマホを持つ指がわずかに震える。画面に表示された『ホワイトデー』という五文字が、凶器のように俺の視界を刺してきた。
ホワイトデー。明日だ。3月14日。 記憶のない俺にとっては、ただの「本屋に行く日」でしかなかったその日付が、今は全く別の意味を持って迫ってくる。
三橋のあの「特別な予定とか、あったり……しちゃいます?」という期待に満ちた上目遣い。 「どこまでもついて行っちゃいますけど!」と身を乗り出してきた時の、弾けるような笑顔。 そして、俺が「参考書」と言い放った瞬間に、彼女の瞳から光が消え、絶望に染まっていくあのスローモーションのような光景。
全部、全部これのせいだったのか。
脳内で自分の失言がリフレインされる。 『参考書買うから明日は会わない』 『コンビニチョコを明後日やる』
……最悪だ。 彼女は、俺に記憶がないことを分かっている。だからこそ、自分からは「お返しの日だよ」とは言わず、必死にヒントを出し続けていたんだ。俺が自力で気づいてくれるのを、今日という日を一緒に過ごせるのを、あんなにあざとい態度まで取って、最後まで信じて待っていた。
それを俺は、参考書という色気も何もない理由で、正面から粉々に踏みにじった。
(……おかしいのは三橋じゃない、俺の頭だ)
血の気が引き、指先が冷たくなっていく。 彼女が「バカ!」と叫んで走り去った理由が、ようやく理解できた。 期待させて、どん底に突き落として、あげくの果てに「コンビニチョコ」だ。記憶がないことを差し引いても、今の俺の対応は人として最低だった。
(……何をやってるんだ、俺は……!)
もしこの通知がなければ、俺は明日、何も知らないまま参考書を買い込み、何食わぬ顔で「勉強が進んだぞ」なんて三橋に報告していたかもしれない。それがどれほど彼女を傷つけるかも想像できずに。
ちょうど、滑り込んできた電車の風が、俺の頬を叩いた。 俺はそれに乗るのではなく、弾かれたように回れ右をして、改札へと駆け出した。
「参考書なんて、買ってる場合じゃない……!」
俺は駅ビルに向かって、全力で疾走した。 バレンタインの記憶なんて一欠片もない。けれど、スマホの画面に刻まれた「絶対」という二文字が、今の俺の心臓を、逃れられない命令のように激しく突き動かしていた。
明日、三橋に見せるべき「正解」を。 失った記憶の空白を、今の俺が全力で埋めるための最高のお返しを、必死に探し始めた。
駅ビルのルミネ大宮。仕事帰りや学校帰りの人々でごった返すフロア。周囲を見渡せば、ホワイトデー特設会場の華やかな看板や、綺麗にラッピングされた箱を抱えて歩く男たちの姿が嫌でも目に入る。
俺は女子の園のような可愛らしい雑貨屋の前に立ち尽くした。 店内から漂ってくる甘い香りと、パステルカラーの装飾。普段の俺なら絶対に足を踏み入れない、いわば「敵地」のような空間だ。
(……何を選べばいい? そもそも三橋の好みなんて、記憶にない俺がどうやって判断すればいいんだ……?)
スマホの画面を凝視するが、リマインダーの文字が答えをくれるわけじゃない。 「センスいい、ちょっといいやつ」 三橋が去り際に残したあのヒントが、呪文のように頭の中で反転する。 ブランド物か? それとも限定のスイーツか? いや、彼女が求めているのは金額の多寡じゃないことくらい、今の俺でもわかる。だが、その「正解」への道筋だけが、どうしても見えてこない。
焦れば焦るほど、さっきまでの自分の言動がどれほど致命的だったかが突きつけられる。本屋だの、参考書だの、コンビニチョコだの……。もし自分が三橋の立場だったら、絶交を言い渡してもおかしくないレベルだ。
額に冷や汗が滲む。俺は棚に並んだバスソルトやハンドクリームの瓶を、まるで解読不能な古文書でも見るような目で見つめることしかできなかった。
「……ちょっと。そんな怖い顔して商品睨みつけて、何かの修行中?」
背後から、少し低めで落ち着いたトーンの声がした。 振り返ると、そこには見覚えのある顔が立っていた。クラスメイトの佐伯 凛だ。
少し明るめに染めた髪を緩く巻き、耳元には小ぶりながら存在感のあるピアスが光っている。短めのスカートにボリュームのあるカーディガンを羽織ったその姿は、大宮駅を行き交う流行に敏感な若者たちの中に自然と溶け込んでいた。
一見すると近寄りがたい派手なギャルだが、彼女は見た目で人を判断しないし、自分自身も媚びない。クラスでも一目置かれている、サバサバとしていて芯の強い女子だ。
「……佐伯か」
「そんな悲壮感漂う顔してギフトショップの前に立たれると、こっちまで不安になるんだけど。……あ、もしかして、明日の準備?」
佐伯は俺のスマホの画面をチラッと盗み見て、全てを察したようにフッと口角を上げた。その笑みには、呆れ半分、面白がり半分といった色が混じっている。
「……最悪なことに、今の今まで完全に忘れてた。さっき三橋を怒らせて帰したところで、ようやく気づいたんだ」
「あー……三橋さん、さっき駅ですれ違った時、めちゃくちゃ不機嫌そうだったもんね。あんなに分かりやすく顔に出るのも珍しいなーって思ってたけど。浅間、一体何言ったの」
佐伯は手に持っていたショップ袋を軽く揺らしながら、俺の返答を待つ。
「……参考書を買うから明日は会わない。お返しは明後日、コンビニで買ったやつを渡すと伝えた」
「…………」
佐伯は一瞬、本当に言葉を失ったように瞬きをした。それから、こめかみに手を当てて深い、深い溜息をついた。
「……あはは、そ、それは確かに三橋さんじゃなくても怒るかも。浅間らしいっちゃらしいけど……今の、ギャグじゃなくて本気で言ったんだよね? さすがにそれはマズいよ」
佐伯は困ったように眉を下げて苦笑いしたが、すぐに「しょうがないなぁ」と肩をすくめた。その瞳には、不器用なクラスメイトを放っておけない、彼女特有の面倒見の良さが宿っている。
「いいよ、手伝ってあげる。三橋さんって可愛いもの好きだけど、あんまり子供っぽすぎるのも違うでしょ? 浅間に任せたら、効率とか機能性だけ重視して、可愛げのカケラもないもん選びそうだし。あの子の機嫌、アタシが一緒に直してあげるから」
佐伯はそう言うと、迷いのない足取りで店の中へ入り、「これとかどう?」と棚の一角を指差した。
「貸し一つだからね。三橋さんが明日、笑顔で受け取ってくれるような『正解』、一緒に選ぼうよ。そんなに焦らなくても大丈夫だから」
「……助かる、佐伯。本当に何をすればいいか分からなくて」
俺は情けないほど素直に、佐伯の後に続いて店内に足を踏み入れた。
そこは、柔らかな照明に照らされた、甘い香りが充満する空間だった。棚には色とりどりのバスソルト、繊細な刺繍が入ったポーチ、そしてホワイトデー用の限定ショコラが美しく並べられている。
「浅間、ちょっとこれ見てよ」
佐伯が棚の一つを指差し、身を乗り出すようにして小瓶を手に取った。
「三橋さん、こういう淡いピンクとか好きでしょ? これ、中身は紅茶なんだけど、容器がインテリアにもなるし。変にお菓子だけ渡すより、こういうの混ぜたほうが『ちゃんと選んだ感』出るよ」
「紅茶か……。確かにあいつ、勉強中によく飲んでるな」
俺は佐伯に促されるまま、彼女の隣に並んだ。佐伯が差し出した紅茶の缶を覗き込む。自然と二人の距離が近くなり、佐伯が「ね、いい匂いしないでしょ?」と悪戯っぽく笑って、俺の鼻先に缶を近づけてくる。
「あ、これ。入浴剤のセットも可愛くない? 浅間、こっちも見て。三橋さんのイメージなら、こっちのブルーのリボンのほうが大人っぽくていいかも」
「いや、三橋ならピンクの方を好む気がする」
「あはは、意外と見てるじゃん。じゃあ、こっちの組み合わせにする?」
佐伯は俺の腕を軽く小突くと、「貸し一つ、どころか三つくらいかな」と笑いながら、さらに店の奥へと俺を誘った。俺も、彼女の的確なアドバイスに救われた心地がして、わずかに表情を緩める。
「……本当、助かる。一人だったら、また無機質な物を選んで三橋を絶望させてた」
「自覚あるなら良し。ほら、次はあっちの限定スイーツのコーナー、チェックしにいこうよ。あそこ、大宮ルミネでも今一番人気なんだから」
佐伯はそう言うと、俺の戸惑いを置き去りにするように、色鮮やかなパッケージが並ぶコーナーへ迷いなく歩き出した。
「ほら見て、これ。ベルギー直輸入のショコラ。この宝石箱みたいなパッケージ、三橋さんみたいなタイプは絶対テンション上がるよ。浅間、こういうの一個選ぶだけで『わかってる感』が出るんだから」
佐伯が指差したのは、リボンが何重にも巻かれた豪華な小箱だった。俺がその値段を見て少し眉を寄せると、彼女は可笑しそうに肩を震わせた。
「高っ、て顔したでしょ。いい? 浅間。女の子が欲しいのはモノじゃなくて、自分のためにどれだけ悩んで、どれだけ気合を入れてくれたかっていう『証拠』なの。特に、さっきの失言の後なんだから、これくらいは投資しとかないと」
「……勉強になる。佐伯は、そういうことに詳しいんだな」
「まあね。アタシも、適当なお返しされると一気に冷めるタイプだし」
佐伯はそう言って、並んでいるサンプルを一つ手に取り、裏面の原材料を真剣な目つきでチェックし始めた。その姿は、先ほどまでの「遊び半分」な雰囲気とは違い、一人の友人のために最善を尽くそうとする真剣さに満ちていた。
「よし、お菓子はこれに決定。あとは……さっきのバスソルト、どっちにする? さっき浅間が言ったピンクもいいけど、この『ホワイトジャスミン』の香り、落ち着くから勉強の合間にいいと思うんだよね」
佐伯は、ピンクの瓶とブルーの瓶を一つずつ手に取ると、俺の目の前に差し出した。
「はい、最後は自分で決めて。三橋さんのことを思い浮かべて、どっちを渡したいか。……ほら、どっち?」
佐伯に促され、俺は二つの小瓶をじっと見つめた。華やかなピンクと、落ち着いたブルー。記憶のない俺には、どちらが「正解」かなんて論理的に導き出せるはずもない。
だが、瓶に鼻を近づけた瞬間、ふわりと漂った柔らかな花の香りが、俺の思考に一つの映像を強制的に割り込ませた。
――「先輩、見てください!つつじ、もうあんなに咲いてますよ!」
夕暮れの公園で、俺の腕を引いて笑っていたあの表情。 照れ隠しに頬を染めながら、鮮やかな花よりももっと眩しく笑っていた三橋の顔が、驚くほど鮮明に脳裏をよぎる。
「……ピンクだ。あいつが喜ぶのは、やっぱりそっちだと思う」
俺が目を開けて答えると、佐伯は満足げに目を細めた。
「正解。……浅間も、ちゃんと三橋さんのこと見てんじゃん。記憶がないとか言いつつ、結局はさ」
佐伯はそう言って、俺の腕をポンと叩いた。彼女の指先が触れた部分が、温かい。三橋とは違う、どこか自立した大人びた温度だった。
「アタシが太鼓判押したんだから、三橋さんの機嫌は100パー直るよ。もし万が一……明日、浅間がまたトンチンカンなこと言って三橋さんが泣いちゃったら、その時はアタシが責任取ってフォローしてあげるからさ」
「……何から何まで、悪いな。佐伯がいなかったら、今頃俺は路頭に迷ってた」
「いいよ。浅間が必死に焦ってるの、見ててちょっと面白かったしね。……じゃ、行こ。閉店まで時間ないし」
佐伯は快活に笑うと、俺を促すように背中を軽く押した。 俺は彼女の目利きを信じて、勧められたバスソルトと、さらに彼女が「これなら間違いない」と断言した季節限定の焼き菓子を手に取った。
レジへと向かう道すがら、鏡に映った俺たちは、傍目には仲の良いカップルがホワイトデーの準備をしているように見えたかもしれない。だが今の俺の頭の中にあるのは、明日、この袋を渡した時に三橋がどんな顔をするか、ただそれだけだった。




