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第19話 皇帝の憂鬱、聖女の昼寝

 帝国生活5週間目。

 ある日の午後、離宮のリビングで本を読んでいた私のもとに、ジークハルトがやってきた。


 いつもなら堂々と扉を開けるのに、今日はなぜかノックをした。

 珍しい。


「入るぞ」

「どうぞ」


 ジークハルトが入ってきて、いつものようにこたつに潜り込んだ。

 しかし、いつもと様子が違う。

 普段は堂々としている背筋が、少しだけ丸まっている。

 鋭い金色の目が、どこか遠くを見ている。


「……どうしたの? 元気ないけど」

「別に。なんでもない」

「嘘」


 ジークハルトがこたつに顔を埋めた。

 帝国の皇帝が、こたつに伏している。

 シュールな絵面だが、笑えない空気がある。


「……今日、元帥府の会議で揉めた」

「揉めた?」

「南部辺境の防衛線を巡って、派閥間の意見が割れている。軍を増派すべきだという声と、外交で解決すべきだという声。どちらにも理がある。だが、最終決定を下すのは私だ」


 彼は目を閉じた。


「戦場なら簡単だ。敵を斬れば終わる。だが、政治はそうはいかん。斬れば不満が残り、不満が新たな敵を生む。……正直に言えば」


 少しの沈黙の後、彼は呟いた。


「国を治めるのは、戦場で剣を振るうより、ずっと疲れる」


 その声の疲労感は、体力的なものじゃない。なんだろう。

 ……22歳なんだよな、この人。


「……ジークハルト」

「なんだ」

「サボれば?」

「……は?」


 彼が顔を上げた。


「1日くらいサボっても、国は滅びないわよ。あんたが背負いすぎなの」

「……そういう問題ではない。皇帝が政務を放棄するなど――」

「『皇帝として』の話じゃないわ。一人の人間としての話。あんた、最後にゆっくり休んだのいつ?」

「…………」


 返答がない。

 つまり、覚えていないほど昔ということだ。


「ほら。こたつに入りなさい。ちゃんと」

「入っているが」

「違う。仕事のことを考えながら入るんじゃなくて、何も考えずに入るの。頭を空にして。ほら、ミカン」


 私はオレンジ色の果実を一つ、彼の目の前に転がした。


「剥きなさい。ゆっくりね」


 ジークハルトは私の顔をじっと見つめた後、ゆっくりとミカンの皮に指をかけた。


 しばらく、二人の間に会話はなかった。

 こたつの温もり。ミカンの甘い香り。窓から差し込む午後の日差し。

 光魔石の柔らかい光が、リビングを包んでいる。


 ジークハルトのミカンの剥き方が、妙に丁寧だった。

 一枚一枚、白い筋まで取り除いている。

 几帳面な性格が、こんなところにも出るのか。


「……アリス」

「なに」

「貴様は……こういう時間を、大切にしているのだな」

「うん。何もしない時間が、一番大事なの」

「……そうか」


 また沈黙。

 でも、気まずい沈黙ではなかった。

 むしろ、肩の力が抜けるような、穏やかな静寂だ。


「アリス」

「まだなに」

「こうして……隣にいてくれるか。もう少しだけ」

「別にいいけど。どうせ動く気もないし」


 私は本に視線を戻した。

 ジークハルトはミカンを一房口に入れ、ゆっくり噛んだ。


「……甘いな」

「でしょ。品種改良したから」


 彼は小さく笑った。

 いつもの不敵な笑みではなく、ただ穏やかな、年相応の笑みだった。


 ◇


 ジークハルトが帰った後、ヘルガがスープを持ってきた。


「アリス様。陛下は……お元気でしたか」

「元気じゃなかったわよ。疲れてた」

「……左様ですか」


 ヘルガは静かに目を伏せた。


「陛下は……即位の際に、多くのものを犠牲にされました。先代皇帝が崩御された後、4人の皇位継承者候補が争い……陛下だけが生き残られたのです」

「それって……」

「詳しくは、いずれ陛下ご自身からお聞きになるのがよろしいかと。ただ……陛下があのように弱みを見せる相手は、私が知る限り、アリス様だけです」


 ヘルガは眼鏡を光らせながら、真剣な顔で言った。


「どうか……陛下のそばにいてあげてください」

「……私は別に何もしてないわよ」

「何もしないからこそ、陛下は安心できるのだと思います」


 ヘルガが去り、私は一人でこたつに潜り込んだ。

 さっきまでジークハルトがいた場所が、まだほんのり温かい。


 何もしていない。

 本当に何もしていない。

 ただ、ミカンを渡しただけだ。


 でも、あの穏やかな笑みを見た時。

 ほんの少しだけ、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 気のせいだ。

 きっと、こたつの熱が移っただけだ。


 ……きっと。


 ◇


 翌朝、ヘルガが報告に来た。


「アリス様。陛下から命令が出ました。『離宮周辺の警備を三倍にせよ』、と」

「……なんで?」

「『大切なものは守らなければならない』との仰せです」

「……あ、これ本格的にヤバいやつだ」


 ヘルガは無言で頷いた。

 その表情は「はい、知っています」と言っていた。


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