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第20話 帝国の聖女、伝説の始まり

 帝国生活6週間目。

 その事件は、私が寝ている間に起きた。


 ◇


 深夜2時。

 離宮の裏口から、黒装束の男が3人。

 音もなく侵入し、廊下を進む。

 物陰から物陰へ、訓練された動きだ。

 明らかにプロの暗殺者だった。


 しかし、彼らは一つ重大な見落としをしていた。

 この離宮には、番犬がいることを。


「――不審な生体反応を複数検知。防犯モードに移行します」


 イチゴ2号の感知システムが起動した。


 暗殺者たちが寝室の扉に手をかけた瞬間。

 足元の床が光り、拘束用の魔法陣が展開された。

 同時に、天井から粘着性のスライムネットが降り注ぎ、3人を一瞬で捕縛する。


「な、なんだこれは!? 体が動か――」

「侵入者を確保しました。マスターの睡眠を妨げる行為は許可されていません」


 イチゴ2号が冷淡に宣言した。

 暗殺者たちは床にべったりと張り付けられ、身動き一つ取れない。


 そして、この騒ぎでも――私は目を覚まさなかった。

 防音結界を張った寝室の中で、私は平和に爆睡していた。


 ◇


 翌朝。

 起きて顔を洗い、リビングに出ると、異様な光景が広がっていた。


 床に3人の男が転がっている。

 スライムネットでグルグル巻きにされ、完全に無力化されている。

 ヘルガと近衛騎士数名が、その周囲に立っている。

 そして、離宮の玄関前には、怒り心頭のジークハルトが仁王立ちしていた。


「……あれ。なんか起きてた?」

「起きてた、ではない。アリス。貴様の命が狙われていたのだ」

「え?」

「この男たちは、旧勢力派に雇われた暗殺者だ。昨夜、貴様の寝室に侵入しようとしたらしい」


 私は床の男たちを眺めた。

 彼らは怯えた目で私を見上げている。

 まあ、スライムまみれで身動きが取れないのだから、怯えるのも当然か。


「……でも、捕まってるじゃない。怪我もしてないし」

「問題はそこではない! 貴様の命が危険に晒されたという事実が――」

「イチゴのセキュリティが機能したんだから、大丈夫。ちゃんと設計通りに動いたわ」

「……!」


 ジークハルトの怒りは収まらない。

 彼は暗殺者たちを睨みつけ、地獄の底から響くような声で宣言した。


「この者たちの背後にいる者を洗い出せ。首謀者には極刑を――」

「ちょっと待って」


 私が割り込んだ。


「極刑って。この人たち、別に何もできなかったじゃない。捕まっただけでしょ」

「だが、貴様を殺そうとした」

「未遂でしょ。怪我もしてない。この人たちを処刑したら、逆に面倒なことになるわよ。『暴君が些細なことで虐殺した』って批判されるだけじゃない」


 ジークハルトが黙り込んだ。

 ……分かってるんでしょ、あんたも。


「それに」


 私はキッチンに向かいながら言った。


「この人たち、お腹減ってない?」


 全員が固まった。


「え?」


 暗殺者たちが、信じられないという顔で私を見た。


「いやだって、一晩中この体勢でしょ? お腹減るよね。カップ麺あるけど、食べる?」

「……は?」

「あ、手が使えないか。ヘルガ、拘束を少し緩めてあげて。食事くらいさせてあげましょう」


 ヘルガは困惑しつつも、イチゴ2号に指示して拘束を緩和した。

 暗殺者たちは手が自由になったが、逃げる気力はとうに失せていた。


 私はカップ麺を3つ作り、彼らの前に置いた。


「はい。熱いから気をつけてね」

「…………」


 暗殺者の一人が、震える手でカップ麺を受け取った。

 おそるおそるスープを啜り――


「…………美味い」


 泣いていた。

 殺しに来た相手に、食事を出されて泣いていた。


「ひとまず食べて。話はそれからでいいでしょ。ジークハルト、あんたもそんな怖い顔しないで。はい、あんたの分」


 私はジークハルトにもカップ麺を差し出した。

 彼は複雑な表情で椀を受け取り、力なく笑った。


「……貴様は、本当に変わった女だ」

「そうですか。ミカンも要る?」


 ◇


 この事件は、瞬く間に帝国中に広まった。

 しかし、広まった内容は事実とかなり異なっていた。


「皇妃様を暗殺しようとした者たちが、逆に皇妃様に命を救われたらしい」

「自分を殺しに来た者にすら、慈悲の手を差し伸べるとは……」

「まさに聖女……いや、女神の化身だ」


 違う。

 面倒な裁判沙汰にしたくなかっただけだ。

 食べ物が余っていただけだ。


 しかし、もはや弁明は無意味だった。

 帝国における「聖女アリス」の伝説は、この日をもって確定したのだ。


 ◇


 事件から数日後。

 ジークハルトが正式な声明を発表した。


 帝国貴族院の前で、彼は堂々と宣言した。


「アリス・フォン・ローゼンバーグを、帝国皇妃候補として正式に認める。彼女の安全を脅かす者は、帝国の敵と見なす」


 ジークハルトの声が、広間に響き渡った。


「異論ある者は、今この場で名乗り出よ」


 一人の老貴族が立ち上がりかけたが、隣の者に袖を引かれ、無言で座った。

 それきりだった。

 誰も、逆らえなかった。

 暗殺未遂事件の首謀者はすでに拘束され、旧勢力派は萎縮している。


「ヘルガ。エリーゼの父親……ヴァルトシュタイン公爵は?」

「関与を否定しております。……尻尾は掴ませておりませんが、注視は続けております」


 完全に決着がついたわけではない。

 でも、今はそれでいい。

 そして何より、「聖女」に手を出した者は帝国の信仰心を敵に回すことになる。


 式典の後、離宮に戻った私に、ジークハルトが言った。


「アリス。もう何も心配するな」

「心配なんてしてないわよ。……でも、一つだけ聞いていい?」

「なんだ」

「私、皇妃にはならないって言ったよね?」

「ああ。覚えている」


 ジークハルトは穏やかに笑った。

 あの、こたつの中で見せた年相応の笑みだ。


「安心しろ。貴様が嫌がることは強要しない。だが、この国で貴様を脅かすものは、二度と現れないと約束する」

「……そう」


 私は呆れつつも、少しだけ――ほんの少しだけ、その言葉に安心している自分に気づいた。


 窓の外では、光魔石ランプが帝都の夜を照らしている。

 私が作った光だ。

 知らない国の、知らない街を、私の灯りが包んでいる。


 不思議な気分だった。


「……まあ、悪くないかな」


 帝国の風呂は最高だし。

 こたつもあるし。

 ミカンも育ったし。

 食事も自分で作れるし。

 ヘルガもいるし。


 ……それに。


 ちらりと、隣でスープを飲んでいるジークハルトを見た。

 彼はこちらに気づくと、不審そうに眉を上げた。


「なんだ?」

「なんでもない」


 私はそっぽを向いた。


 こうして、帝国での生活が始まった。

 面倒なことだらけだけど……まあ、お風呂とこたつがあるから、悪くない。


 ……たぶん。

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