第11話 帝国へようこそ(お風呂はありますか?)
目の前の景色が、ぐにゃりと歪んだ。
胃の底から込み上げてくる不快感。
視界がぐるぐると回転し、全身を圧迫するような違和感が全方位から襲いかかる。
「……う」
これは、転移魔法だ。
ジークハルトが「移動は一瞬で済む」と言い張るので、宮廷魔術師に転移陣を起動させたのだ。
確かに一瞬だった。
だが、その一瞬に、内臓が裏返るような衝撃が詰まっている。
「お、おえ……」
「大丈夫か、アリス?」
「大丈夫じゃない……。次から馬車にして……」
ジークハルトが慌てて私の背中をさする。
彼はケロッとしている。さすが戦場で鍛えた男だ。三半規管が鋼鉄製なのだろう。
吐き気をこらえながら顔を上げると、目の前に広がっていたのは――異世界だった。
いや、この世界にいる時点で異世界なのだが、それにしても見慣れない光景だ。
巨大な城塞。
灰色の石壁が天を突くように聳え立ち、その上には無数の旗がはためいている。
城の周囲には分厚い城壁が何重にも張り巡らされ、要所には監視塔が立ち並んでいた。
街路を行き交うのは、大半が軍服を着た屈強な男たちだ。
時折、フル装備の騎士が馬を駆って通り過ぎる。
ローゼンバーグ王国は、優雅な庭園と花で彩られた街並みが自慢だった。
しかし、ここガルディア帝国の首都は、まるで巨大な軍事要塞そのものだ。
美しさではなく、堅牢さが最優先。
花壇の代わりに大砲台があり、噴水の代わりに給水塔がある。
(……石造りで寒そう。断熱材が必要ね)
私の第一印象は、そんな的外れなものだった。
馬車の窓から外を覗くと、街路に民衆が群がっていた。
「あれが陛下の連れ帰った女か?」
「小さいな……」
「あんな娘が皇妃? 嘘だろ?」
私は即座にカーテンを閉めた。
見世物じゃないんだけど。
◇
「陛下! 陛下のお帰りです! 門を開けーーっ!」
轟音と共に、巨大な鉄門が左右に開いた。
その向こうには、整列した兵士たちが槍を掲げ、一斉に敬礼している。
ジークハルトが私の腰に手を添え、堂々と城内へと歩き出した。
自然な仕草だが、その手はしっかりと私を逃がさない位置にある。
……帰りたい。
「陛下! ご無事で何よりでございます!」
城門の奥から、一人の女性が小走りでやってきた。
銀縁の眼鏡をかけた、切れ長の目をした長身の女性だ。
黒髪を一本に束ね、帝国式の侍従服をきっちりと着こなしている。
年齢は30代半ばだろうか。全身から「有能」の二文字が滲み出ていた。
「ヘルガ。留守の間、ご苦労だった」
「いえ。……して、陛下」
ヘルガの目が細くなった。
……値踏みされている。
「こちらの方が……?」
「ああ。アリス・フォン・ローゼンバーグだ。私の未来の皇妃だ」
「未来の皇妃じゃないです」
即座に否定する私を、ヘルガは無言で見つめた。
数秒の沈黙の後、彼女は深々と頭を下げた。
「ヘルガ・フォン・シュタイナー。帝国皇帝付き侍従長を務めております。以後、お見知りおきを」
「あ、はい。アリスです。どうぞよろしく」
侍従長。
つまり、この人がジークハルトの身の回りの世話を取り仕切る、宮殿の実質的な管理者だ。
王国で言えば、マリーの上位互換のような存在か。
「ヘルガ、彼女に皇妃の間を」
「かしこまりました」
ヘルガの案内で、長い石造りの廊下を歩く。
壁には歴代皇帝の肖像画が並び、重厚な甲冑が飾られている。
どの顔も険しく、「優しさ」という単語とは無縁の面構えだ。
ジークハルトの家系……なるほど、血筋が見える。
「あの……ヘルガさん」
「ヘルガとお呼びください」
「じゃあ、ヘルガ。一つ聞いていい?」
「なんなりと」
「この城に、お風呂ある?」
ヘルガの足が止まった。
彼女は眼鏡の位置を直しながら、わずかに首を傾げた。
「……お風呂、でございますか」
「うん。できれば湯船に浸かれるやつ。追い炊き機能付きだと嬉しいんだけど」
「帝国には……湯を張った桶で体を洗う沐浴の設備はございます。ですが、『追い炊き』なるものは――」
「ないのね。知ってた」
私は深いため息をついた。
この世界、どこへ行っても風呂文化が発展していない。
まあ、いい。想定内だ。
ここにもたっぷり魔石はあるようだし、作ればいいだけの話だ。
◇
ヘルガに案内された「皇妃の間」は、想像以上に豪華だった。
天井にはシャンデリア。壁には金糸の刺繍が施されたタペストリー。
ベッドは二人でも三人でも余裕で寝られそうな、化け物サイズの天蓋付きだ。
窓からは帝都の街並みが一望できる。
……落ち着かない。
「いかがでしょうか。陛下が、最高の調度品を取り揃えるようにと」
「うん。綺麗だけど……ちょっと広すぎるかな」
私が求めているのは六畳一間の快適空間であって、こんな大広間ではない。
あの離れの、こたつとソファがある小さなリビングが懐かしい。
「ヘルガ、この宮殿の中で、一番狭くて、一番使われてない部屋ってある?」
「……は?」
「できれば離れとか別棟がいいんだけど」
「あ……申し訳ございません、お気に召しませんでしたか。すぐに別のお部屋を――」
「違うの。私、広い部屋だと落ち着かないのよ。こじんまりした場所がいいの」
ヘルガは困惑した表情を浮かべつつも、少し考えた後、答えた。
「……西の離宮であれば。現在は使われておらず、小さな建物ですが」
「それ! そこにする!」
「しかし、あちらは老朽化が進んでおりまして……雨漏りもしますし、陛下のお耳に入れば――」
「大丈夫。直すから」
私はニッコリと笑った。
ボロい離れを改造するのは、私の十八番だ。
10年前にも同じことをした。
あの経験があれば、今回はもっと早く、もっと快適に仕上げられるだろう。
「案内して、ヘルガ。私の新しいお城を」
「……かしこまりました」
ヘルガは戸惑いつつも、私を西の離宮へと案内してくれた。
そこにあったのは、半分朽ちかけた石造りの小さな建物。
窓は一部が割れ、蔦が壁を覆い、埃っぽい空気が漂っている。
最高だ。
(ここに、こたつを置いて、お風呂を作って、キッチンを整えて……)
私の頭の中で、設計図が猛スピードで組み上がっていく。
帝国の高純度魔石があれば、王国では実現できなかった技術も試せるかもしれない。
研究者としての血が、久しぶりに騒いだ。
「ヘルガ。この建物、もらっていい?」
「……陛下のご許可が必要ですが」
「じゃあ聞いといて。私、今日からここに住むから」
ヘルガは目を丸くしたが、すぐに表情を引き締め、深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。陛下にご報告申し上げます」
彼女が去った後、私はボロボロの離宮の中に一人残された。
窓から差し込む夕日が、埃を金色に染めている。
王国ではない。
実家でもない。
知らない国の、知らない城の、朽ちかけた小さな離宮。
嫌じゃない。……なんだろう、この感じ。
「……さて。まずはお風呂からだな」
私は袖をまくり上げると、早速改造計画に取りかかった。
帝国がどうとか、皇妃がどうとか、そんなことは後回しだ。
まずは、お風呂。
話はそれからだ。
こうして、帝国での私の新生活は――例によって、風呂の改造から始まったのだった。




