5-4 噂
悪意というものは、簡単に具現化できる。
暴力や中傷、詐欺や差別など、形を成した悪意はこの世にいくらでも蔓延っている。
殺人なんて、最も王道な悪意の具現化だ。
しかし、人は表立ってそれをしない。
なぜなら、人には善性があるから。
善性があるから、その悪意を持ってして尚、具現化を踏み止まれる。
けれど、もし悪意や敵意が具現化されるようなことがあるなら、それはきっと、その善性を踏み倒せる程の『理由』か『免罪符』が与えられた時だ。
「……」
否が応でも流れるものは沈黙。
目の前には、積み上がったゴミ袋と、塀にスプレーで書かれた『人殺し』『早く死ね』『汚物』という文字。
立派な悪意の具現化だった。
「あー……またですか」
玄関にいた雷矢は現状を理解すると、慣れた手つきで収納から2枚の雑巾とバケツを取り出す。そして庭の蛇口でバケツに水を入れ、俺たちがいる庭の扉まで駆け寄る。
「すみません、ただのイタズラです」
「……これが?」
「はい」
雷矢はこの異常になんの動揺も困惑もなく、まるで日常のように雑巾を水に浸す。
「真弓も、はやく」
「……うん」
真弓は重い足取りで玄関から庭へと足を運ぶ。
一方で、真弓はこの状況に酷く憔悴し切っているようで、その声にリビングでの明るい声は何処にもない。
「……手伝うよ」
俺はしゃがんで、もう1枚の雑巾を水に浸す。
「え……」
雷矢はバケツの中の雑巾から手を離して、俺の手を掴む。そして、戸惑いを隠すことなく言葉を紡ぐ。
「ダメです、アカリには関係ないことですから」
「うるせぇ」
「うるせぇ!?」
雷矢の驚愕が静かな住宅街に響いた。
俺はため息を吐いて、雷矢の手を振り払う。
「飯と着替えのお礼だよ」
俺はそう言いながら雑巾を絞り、塀に書かれた落書きを拭く。
「え……あ、あの……」
雷矢はその言葉に酷く声を揺らしていた。
「このゴミ袋どこに持っていけばいい?」
唐突に言葉を放つ戒刃のその両手には、ゴミ袋が握られていた。
彼もまた、この状況を見て見ぬふりはできなかったのだろう。
「意外と重いな、これ」
「……う」
隣にいた槍華とシロアもゴミ袋を持ち、既に運ぶ準備は万端だった。
「あ……えっと」
「……雷矢、案内してあげて」
真弓は雷矢から雑巾を取ると、雷矢に目配せする。
「……わかった」
「じゃ、雷矢頼む」
戒刃と槍華、シロアは雷矢と共にゴミ袋を持ってどこかへ去っていく。
「……」
「……」
俺と真弓はひたすらに、目の前の落書きを雑巾で擦っていた。
塀の横には『影本』と記された表札がある。真弓と雷矢の苗字、影本って言うのか。初めて知ったな。
つーか全然消えない……スプレーって意外と手強いんだな。
「……ごめんね」
ふと、真弓の言葉が落ちる。
「謝るなよ。好きでやってることだから」
「……でも」
「気にするな。こんなこと、長い人生の中で普通にあるだろ」
「多分ないよ」
即答。反論できない。確かにないなこんなこと。励まし方、間違えた。
「……私たちに優しくなんてしても、良い事ないよ」
真弓はまるで全てを諦めたかのように、言葉を紡いだ。
俺はその言葉に少しだけ納得ができなくて、反論をぶつける。
「あるだろ。つーかお前らは俺に風呂入れてくれたし着替えも貸してくれたし、しかも飯食わせてくれた。めっちゃ優しくしてくれたじゃん。その礼だって」
「……人殺しの子供でも?」
「うん」
「………………えっ」
バッと顔をこちらに向ける。
住宅街に響くのは、真弓の間抜けな声。
それを無視するように、言葉を紡ぐ。
「つーかお前が人を殺してないなら、真っ当に不当じゃねぇか。あのゴミ袋も、この落書きも。もっと怒れよ」
「いやいやいや!? 私たちの親、人殺しだよ!?」
「だから何なの? 関係ないじゃん」
「関係ないって……」
真弓は納得がいかないと言いたげに、眉をひそませる。
俺はその顔を横目に、落書きを拭き続けた。
実際、関係ないと思うけど。真弓と雷矢が人殺しの子供なら、殺したのは親だ。子供に罪はない。
「……」
つーか、真弓には言えないけど、俺も人殺しだ。
実際に人を殺したことのある俺になら分かるけど、殺していない真弓や雷矢に悪意を向けるのは間違いじゃないか?
「……変なやつ」
「最近よく言われるな、それ」
「うん、暁理めっちゃ変だよ」
真弓はそう言い切って。
「……でも、ありがと」
そう言い放つ彼女の頬は、微かに緩んでた。
「おい、戻ったぞ暁理」
その声の先に振り返ると、戒刃達がやり切ったような顔をしていた。
「おかえり」
「みんな、ありがとう」
真弓がそう言うと、戒刃はズドンと構えたまま応える。
「礼を言われることはしてない」
戒刃がそう言い放つと、真弓は微かに眉を顰めた。
「……あとはこの落書きだな」
俺がそう呟くと、槍華が口を開く。
「ねぇ雷矢、雑巾まだ余りあるか?」
「え、あ、はい」
「俺たちも拭くから持ってきて」
「……もってきます」
雷矢は言いたいことを飲み込んで、家に戻る。
その間に、真弓が再び口を開く。
「……もう、来ない方がいいかも」
「え、なんで?」
槍華が軽い調子で問いかける。
「……私たち、結局人殺しの子供だから」
「いや、着替え返さないといけないし」
「飯も食いたいし。な、シロア?」
槍華がシロアに話を振る。今じゃねぇだろ。
「えっ……? あ、は、はいっ!」
シロアはシロアで真っ当に答えるんかい。
「また来るよ」
俺がそう言うと、真弓は再び悲しそうに眉を潜ませ、小さく零す。
「……うん」
その後は雷矢が持ってきた雑巾で落書きを拭いて、綺麗になった後で解散した。
「……暁理さん」
帰り道。ふと、シロアが口を開く。
「ん?」
「……あれは、この世界じゃ普通なんですか?」
あれ、というのは、ゴミ袋と落書きの事だろう。
「いや、全く。だよな槍華」
「だな。あんなドラマみたいな光景、初めて見た」
槍華はあっけらかんと答える。
「……では、どうしてあんなものが」
シロアは何かを酷く考えた顔をしていた。
「……そんな事、今は考えなくていい」
そうだ。そんな事を考える前に、俺たちは『デザイア』を集めることが最優先……
「───いえ、考えた方がいいです」
唐突に、背後から中年男性の声が聞こえてくる。
殺意も敵意もない。ただの一般人の気配。
「……えっと」
俺はゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、中肉中背で眼鏡をかけた、何処にでもいるような中年男性だった。
「はじめまして。私の名前は佐藤です」
男……もとい佐藤は礼儀正しくお辞儀をする。
「……ども」
俺は軽く会釈をして、横のシロア達も軽い会釈をする。
顔を上げた佐藤は、にっこりと貼り付けたような笑顔を見せて、唐突に告げる。
「貴方達が先ほどいたあの家……影本家。あそこの父親がなにをしたか、知っていますか?
「……いえ」
俺がそう答えると、佐藤は微かに頬を上げて、はっきりと告げる。
「父親は母親を……自身の妻を殺しました」
「───」
一種の静寂。同時に点と点が線で繋がる。
その言葉を信じるなら、あのゴミ袋の山や落書きにも『理由』がある。
「……その代償に、あんな仕打ちを?」
「そうですね……それもありますが……一番の原因は別にあります」
「別?」
「ええ、これは噂ですが……」
ごほん、と咳払いをして。
「実は、母親を殺したのは真弓。双子の姉だと言われています」
「……は?」
瞬間、世界から音が剥奪されたような静寂。
そして、また次の瞬間には、街灯の音や遠くの車の駆動音。何処にでもある静かな住宅街。
それがやけにうるさくて、耳を塞ぎたくなった。
あの人が、真弓が、人を殺した?
「信じるかどうかは貴方達次第ですが……もう会わない方がいいでしょう」
佐藤はそう言いながら、背を向ける。
「……殺人鬼と友達だなんて、思われたくないでしょう?」
彼はそう言い残し、勝ち誇ったように去っていった。
「……」
俺達は佐藤の背中が見えなくなるまで、なに一つとして言葉を発せなかった。
そして、意外にも最初に言葉を放ったのは、戒刃だった。
「……どう思う? 殺人鬼」
「人を殺人鬼みたいに言うな」
冗談言える空気じゃねぇだろ。こいつ……なんか変わった?
「で、どうする? これから」
槍華は腕を頭の後ろで組みながら、あっけらかんと問いかける。
俺は顎に手を当てて、脳内の思考回路を起動する。
最適解はなにか。最優先はなにか。
そして、たどり着いた結論は単純なものだった。
「……一旦、サテライトに帰ろう」
顎から手を離し、言葉を続ける。
「それで、真弓と雷矢のことを調べてもらおう」
その言葉に、戒刃が目を丸くして疑問を投げかける。
「……それ、『デザイア』探しに必要か?」
「必要ない。でも、俺はあの二人に恩があって、二人が不幸になるのは嫌だ」
そう、必要ない。でも、俺にはあの二人に恩があって、そんな二人が曖昧な真実に翻弄されて傷つくのは嫌だ。
「なにが真実か、知るべきだ」
俺は魂からの願いを吐き出して、足を前へ動かす。
後から思えば、この決断は正解であり、間違いだった。
真実とはそこに有るだけで、その存在に『理由』も『免罪符』もない。
ただそこにあるだけ。
それがたとえ、望まない真実でも。
お読みいただきありがとうございます。
とことん設定を練っている所と全く設定を練っていなかった所がバレてくる季節ですがいかがお過ごしでしょうか。
真弓と雷矢の苗字が『影本』なのは、執筆中に決めました。諸行無常ですね。




