第9.5話 獣人の少女の記憶(中編)
——よぅ、兄ちゃん。ちょっといいか?
見覚えのある男の人が、お兄さんのお腹を蹴った。
いつも、おじさんと一緒にいた、血のついた剣を持った男の人。
やっぱり、800ギルゼは危ない言葉だった。
それから、お兄さんと男の人は何かを話していたけど、よくわからなかった。
知らない言葉が多すぎる。
でも、お兄さんがしていることが間違いだとはわかった。
こういう時には、何も話しちゃ駄目なんだ。
——誰がお前の言うとりにっ!
相手の人が飽きるまで、黙って話を聞かなくちゃ駄目なのに、お兄さんは叫んでいる。
——あぁそうだよなぁっ!! やっぱり最高だぜ、お前っ!
思った通り、男の人は興奮してしまった。
そして、またお兄さんのことを蹴った。
お兄さんが苦しそうに、床に丸まっている。
あぁ...やっぱりこうなるんだ。
私は自由になることなんてできない。
——逃げろっ、早くっ!
お兄さんはそう言ったけど、私の足は動かなかった。
もう、何をしても無駄だとわかってしまった。
すると、今までお兄さんを見ていた男の人が、私のことを見た。
——そういえば、そいつは始末しろって言われてたんだった
男の人はそう言って、私のほうに体を向けた。
始末...?
そう思った瞬間、気づけば私に剣が振り下ろされていた。
え...これ...死...。
その時、私は死んでもいいかもしれないと思った。
多分この先、生きていても何も良いことなんかない。
むしろ、この先の嫌なことから逃げられるなら、ここで死んだ方が良いんじゃないかって。
私は剣が振り下ろされる間に、そう思って、そっと目をつぶった。
......。
............。
しかし、いつまで経っても私が剣に切られることはなかった。
——ぐぅっうああああ!!
え...?
目を開けると、お兄さんがこちらを向いて私の目の前にいた。
な、なんで。
なにしてるの...?
お兄さんの背中が切られて、床にたくさんの血が落ちている。
お兄さんを切った、男の人も私と同じように驚いて固まっている。
でも、お兄さんだけが動いた。
お兄さんは私にさっきくれたのと同じ瓶を取り出して、それを飲んだ。
そして、お兄さんは私に背を向けて、男の人に向き直る。
その背中からは、傷がなくなっていた。
——こちとらダンジョン攻略の時に、とっくにゾンビ戦法を試してんだよっ!
お兄さんはそう言って、男の人に飛びかかった。
お兄さん何度も切られて、叫んで、苦しそうにしながら、さっきの瓶のお水を飲んだり、かけたりして、傷を治しながら男の人に立ち向かった。
痛いはずだ。
苦しいはずだ。
お兄さんは男の人に傷一つ付けることができてない。
勝てないよ...お兄さんじゃ...。
そんなこと、お兄さんが一番わかっているはずなのに...。
なんで...なんで...戦うの...?
「なんで...」
気づけば私の口から言葉がもれていた。
——え...
そして、お兄さんは私の声に振り返ってしまった。
男の人の剣がお兄さんのお腹に刺さる。
お腹から刺さった剣の先っぽが、お兄さんの背中から見えている。
そして、男の人はそれを斜めに引き上げて、お兄さんのことを切った。
——あっ...あがぁっ...あぁ…
お兄さんはそう言って、動かない。
なんで...早く治さないと...お兄さん死んじゃうよ...。
もしかして...動けない...の...?
気づけば私は、お兄さんのカバンから瓶を手に取り、中のお水をお兄さんにかけていた。
だめ...しんじゃ...だめ...!
この人は死んじゃ駄目だと思った。
死んでほしくないと思った。
そして、傷が治ったお兄さんはまた立ち上がって、男の人に立ち向かおうとした。
けど、足が震えていて全然立てていない。
これじゃ、またお兄さんは大きな怪我をしてしまう。
今度は治せないかもしれない...。
このままでは、お兄さんが死んでしまう...。
この人は私に優しく笑いかけてくれた。
こんな私を守るために、たくさんの傷を我慢して戦ってくれた。
もう充分だ。
なんの価値もなかった私のために、お兄さんはこれだけのことをしてくれた。
私が助けてほしいと思った時に、お兄さんは来てくれた。
ずっと祈っても、願っても、叶わなかった私の夢を叶えてくれた。
この人が私のご主人様になってくれてよかった...。
だから...もう大丈夫だ。
私はここで死んでも...大丈夫...。
これで終わったとしても、私は幸せだったと、自信をもって言える。
「...大丈夫...です。主様...」
私はお兄さん...いや、私の主様の前に立って言った。
そう、大丈夫だ。
何も怖くない。
私は、この人のために死ねるんだ。
最期くらいは、誰かの役に立ってみせろ、わたし。
——死ねやぁ! クソどもがっ!
男の人がそう言って、突っ込んできた。
速い。
これでは、いまさら避けようとしたところで、死んでしまう。
死の恐怖かな...なんだか体があつい...。
そして、男の人の剣が私の首元に、吸い込まれるように向かってくる。
その時、私は気づいた。
あれ、見える...。
私には男の人の動きがとても遅く見えていた。
そして、気づけば体が勝手に動いていた。
体をどう動かせばいいのか完璧に頭で理解できた。
真っすぐ突くように向かってくる剣を手で挟んで逸らす。
その後に...蹴るっ!
そう、思った時には既に体が動いていた。
男の人は凄い音をたてて、壁にぶつかって動かなくなった。
なにが起きた...??
私が...倒した...?
わからない、わからないけど、何かが今までと違う。
見えるものがはっきりとして、つっかえていたものが取れたような、そんな気持ちのいい気分だった。
この力があれば、私は自由になれるかもしれない。
私は今なら、なんでもできる気がしていた。
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