【陵王の舞】
一三三一年三月四日、後醍醐天皇が北山第の西園寺邸に行幸した。嵐の前の静けさというべきか、この御幸は、表面上終始穏やかなものだったと伝わっている。
天皇を迎えるのは、西園寺公宗だった。公宗は、一三二六年に亡くなった西園寺実衡の後継ぎで、関東申次を務めている。また、皇太子の傅役を兼ねていた。皇太子は持明院統の量仁親王なのだから、公宗は持明院統派だったといえる。
一方、天皇にお供をするのは、源具行ら討幕計画の推進者たちである。
六日、桜吹雪の中、琵琶や笛の演奏が開始された。これを聴く後醍醐の傍らには、第一皇子尊良親王の姿が見える。だが、その腰には、物騒なものが覗いていた。
『御直衣に太刀はき給へり』(増鏡)
“直衣に太刀を差しておられた”
日が暮れ始めた頃、陵王の舞が始められた。舞手は北畠顕家。親房の嫡男である。
庭園を彩る桜の間から夕日が覗き、舞手を照らす。
桜の枝に羽を休める鳥達が、舞に感応し、歌を奏でる。
『陵王のかがやき出たるけしきいとおもしろく。かたりつたふるばかりにて。いづれとみわきたるかたは侍らねど。ひけとる手などいふ事にやとおぼゆる』(舞御覧記)
“陵王の輝かしい様子は、たいそう趣があり。語り伝えたい程でした。最も優れた舞手を見分ける方法などございませんが。他に引けをとる事などあるまい、と思われました“
天皇も、思わず笛を手にする。笛の音に包まれ、舞手は一層輝きを増した。
乱直前の儚い幻想。後年、誰もがこの日を懐かしんだ。
北畠顕家、生涯を絶人の舞で彩る麗人の初舞台であった。
七日、歌会が催された。しかし、この日、後醍醐天皇が詠んだ和歌の上の句は、『増鏡』にも『舞御覧記』にも記録されていない。
『御製、 代々の御幸の あとと思へば この上、忘れ侍るのちに見出してぞ』(増鏡)
“上の句は忘れたから後で調べる”と白々しく惚ける「増鏡」の作者。
公家社会が、これ以降の後醍醐をどう評価したのかは、これより推して図るべし。
『宿からは 花も心に とまるかな
代々のみゆきの あとと思へば 』(新葉和歌集i)
このように、記録が残っているのだから。忘れるはずがないのである。
その頃、籠居中の吉田定房が、非情の決意をしていた。




