【元弘の変】
一三三一年四月二十九日、六波羅に密告が届いた。
『主上世を乱らしめ給う、俊基朝臣張行の由、一品定房卿内々申さる』(鎌倉年代記裏書)
“帝が日野俊基に唆されて討幕を企てていると定房卿が密告してきた”
吉田定房が、討幕計画を止めるため、行動に出たのである。
即ち、日野俊基を首謀者に仕立て上げ、これを差し出す事によって、幕府に政治取引を持ちかけたのである。後醍醐天皇の安全を確保するための非情の策だった。
一説に、この密告は「後醍醐天皇が承諾し、幕府の動揺を誘ったのだ」ともいう。
しかし、これは荒唐無稽すぎる。先に、中原章房は討幕計画に反対しただけで暗殺された。そこまで徹底した行動を採る後醍醐が、何を好んで計画を漏らすというのかi。
この密告により、五月十一日には文観が、七月十一日には日野俊基が捕縛された。
この後、数ヵ月間、源具行・前天台座主法親王尊雲(大塔宮、のちの護良親王)・天台座主法親王尊澄(のちの宗良親王)らの指示でひそかに六波羅追討計画が練られた。
しかし、討幕計画を知った幕府では、対応を巡って、致命的な対立が起きていた。
八月五日、鎌倉で「得宗が内管領の抹殺を謀っている」という噂が流れた。
『長崎三郎左衛門尉高頼以下の者共に云付て、高資を討たんとしける』(保暦間記)
“(北条高時は、)長崎高頼以下の者に命じて、高資を討とうとした”
しかし、内管領に先手を打たれ、逆に高時の側近と長崎高頼が拘束された。
『我は知らぬ』
そう言い張る得宗は、追求を逃れたが、高頼らは流罪となった。
この事件は、高時が唯一意志を示した事件である。高時が目論んだのは、幕府の停滞の打破である。討幕運動に危機を感じ、得宗による専断体制を築こうとしたのだろう。しかし、父貞時のようにはいかず、宮方に貴重な時間を与える結果に終わったのである。
八月二十四日、六波羅北方の北条仲時は、宮中の不穏な動きを察知した。
『やつれたる女車のさまにて、忍び出でさせ給ふ』(増鏡)
“帝は、粗末な女車に乗って、宮中を密かに脱出された”
間もなく、六波羅の軍兵が宮中に乱入した。
『宮人だに一人もなし』
“(しかし、)誰一人いなかった”
帝が内裏を捨てた。まもなく、都は大騒ぎとなった。




