【老臣との別れ】
一三三〇年、京では、後醍醐天皇によって、討幕計画が公然と進められていた。
既に、皇子尊雲法親王(大塔宮)を何度も天台座主(比叡山指導者)とし、一月には、四条隆資を検非違使別当(京長官)にしている。僧兵・悪党を動かす準備だった。
三月には、南都北嶺に行幸した。これによって、春日神社・興福寺・東大寺・延暦寺・日吉社といった有力寺院を、味方につけようとしたのである。
しかし、このような動きに反発する声も小さくない。大体、貴族は行動を嫌う。まして、討幕計画は無謀だった。僧兵と悪党を結集したくらいで、武士に勝てるのか。四月一日、その一人である中原章房が、清水寺で暗殺された。犯人は、“瀬尾”という悪党だった。
これは後醍醐の命で、「討幕に反対した章房の口を封じたのだ」と言われている。
後醍醐天皇のやり方は、さながら暴君である。しかし、そうとばかりもいえない。
五月二十一日、後醍醐は、米と酒の価格を下げ、商人にその価格で取引するよう命じた。これは、食料の高騰に苦しむ民を救うための政策だった。しかも、商人達が売り惜しみをすると見るや、二条町に小屋を建て、そこで商人に米を売らせた。更に六月十五日には、飢饉を救うため、諸国の関所で米を徴収するのを、八月まで停止している。
以上は、人気取り政策かもしれないが、その実行で民は確かに救われた。
それを横目に、七月、幕府は六波羅南方の金沢貞将を鎌倉に呼び戻し、一番引付頭人とした。この時、二階堂道蘊も五番引付頭人になっている。
貞将の昇進はともかく、道蘊ごときが引付頭人になるとは(【踊る鎌倉幕府】参照)、人事の混乱ぶりもひどい。貞将が抜けた後の六波羅は、北方が普音寺仲時(基時の子)、南方が北条時益となった。彼らが、「最後の両六波羅」である。
九月十七日、後醍醐天皇の皇子である世良親王が逝去した。
『今より記録所へも御供に出でさせ給ふ』(増鏡)
“(亡くなる前、皇子は)帝に御供して、記録所に出席していた”
後醍醐は、「この皇子こそ後継者」と考えていたらしい。それだけに、周囲の落胆は大きく、傅役の北畠親房が出家してしまった。こののち、数年間親房は政治を離れた。
一三三一年になった頃、諫言を容れない後醍醐に、吉田定房が出仕を止め、邸に籠った。
『勅許なきに依り、一向に蟄居す』(吉口伝・「南朝史論考」一二七頁)
後醍醐天皇の評価は難しい。しかし今、対等の政治思想を持つ者達が、側から離れていった。これこそ、かつて花園上皇が指摘した「欠陥」といえるかもしれない。




