裏の畑と、初夏の風
灯里のまかない日誌より
九日目。
初夏の山菜、森のへりで摘んだ。
ミラさんが、二杯。
朝に物干しへ出ると空気が変わりはじめていた。春の湿った匂いに初夏の乾いた風が少しずつ混じってきている。裏手の畑の香草も、丈を伸ばしはじめていた。この宿に来て、季節の端が動きはじめているのだとわかる。物干しの竿の上では、ポポが初夏の風に吹かれて、丸くなったり少し転がったりしていた。
その日はミラと二人で裏手の畑の手入れをした。土の匂いと、香草の青い匂い。伸びすぎた草を根もとから抜いていく。抜いた一本を、ミラが黙って土に戻した。まだ、見分けられない。畝の隅には、あの乾燥棚があった。
「この乾燥棚、ずっとありますね」
「昔から、置いてある。……たまに、使う者がいる」
ミラはそれ以上説明しなかった。使う者の名はまだ聞かなかった。棚にたまった埃をまた布で払っておく。いつか使う人のために。
ミラが森のへりに初夏の山菜が出ていると言った。二人で、こもれび亭のすぐそばの霧明の森のへりまで歩く。木漏れ日が落ちて、若葉と湿った苔が匂う。森のへりは、宿のなかより少し涼しかった。
切れこみの深い葉を一枚、ミラがちぎって寄こした。
「それは、苦い」
葉先をかじってみる。最初は青い匂いだけで、少し遅れて苦みが来た。その株からも少しだけ摘んで、やわらかい葉とは分けて籠の片側へ入れた。
山菜を摘んでいるうちにふと手が止まる。いま、宿のなかではない場所にいる。そして、仕事をしているのに少し楽しい。ポポは森のへりで木の葉と区別がつかなくなり、見つけるまでに少しかかった。
山菜を摘み終えると、ミラが「少し座るか」と言った。二人で倒木に腰を下ろす。最初は落ち着かなかった。手が、次の仕事を探している。
「いま、急ぐ仕事はない」
「座るのも、宿の仕事のうちだ。……と、祖母が言っていた」
次の仕事を探していた手を、倒木の上へ置いた。初夏のはじめの風が、森のへりを通っていく。ポポが膝の上に乗ってきて、丸くなった。
膝の上のポポが風に合わせて少し揺れた。倒木の樹皮は、思ったより固かった。
帰り道、山菜の籠を提げていると、ミラが宿のことをひとつ切り出した。
「夏のまかないはお前に見てもらう。畑のものも、森のものも、お前が見て献立を組め。わたしは、薪と修繕をやる」
「私が、決めていいんですか」
「まかないは、な。宿のことを、ひとつ、お前に任せる」
うなずいて、籠の持ち手を握り直した。帰ったら、今夜の山菜から決めればいい。
夜のまかないは籠の中身から決めた。やわらかい葉は汁の実にして、さっと煮る。苦いほうは、ひとつまみだけ細かく刻んでおいた。汁を椀に張って、刻んだ葉を散らす。椀から青い香りが立つ。ミラは椀を二度よそって食べた。何も言わないけれど、それが「うまい」の合図だ。ポポは椀の向こうで、山菜の青い湯気を追っていた。
春が終わろうとしている。窓の外を初夏の風が通り、玄関の灯りが小さく揺れた。明日からの献立も、自分で組んでいく。
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