張りつめた肩の客
灯里のまかない日誌より
八日目。
木漏れ日のパン、焼き直して、包んで。
肩の下りた客が、ひとり。
昼下がりに玄関の鈴が鳴った。旅人がひとり雨上がりの古道から訪ねてきた。三十歳くらいの男で、背負った荷は仕事の道具らしい。書類を入れた袋や計算に使う木札がのぞいている。物腰は丁寧だけれど言葉は早口で、どこかせかせかしていた。
「一晩、頼みます。朝には出ます。なるべく早く」
宿帳を出しながらその人の肩がぐっと上がったまま下りていないことに気づいた。食堂の隅ではポポが旅人を見て少しだけしぼんでいる。
客室へ案内しながら、それとなく旅人を見た。首の後ろが張ったままで、視線は落ち着く先を探さず、いつも次のものを追っている。椅子をすすめても、すぐ立ち上がれる姿勢のまま浅く腰かけた。休むために宿へ来たのに、体のほうが休み方を忘れている。食事や寝具を整えるだけではたぶん足りない。──この肩の上がり方を、どこかで見たことがある。
部屋に入ると、旅人は荷から木札の束を出して、机の上にきちんと積んだ。
「夜、灯りを借りられますか。片づけたい勘定があって」
「お持ちします。……油は、夜半のぶんまでにしておきますね」
一瞬けげんな顔をしてから、わかりました、と言った。
厨房でミラに相談した。
「あのお客さま、肩がずっと上がっています。夕食をどうしようかと」
「まずは、お前がいいと思うものを聞かせろ」
考えていることを話すと、ミラは頷いた。
「いいだろう。やってみろ」
旅人の夕食は急いで食べられない構成にした。急いで食べる癖は、ゆっくり、と言葉でいっても直らない。それはホテルで何度も見てきた。けれど急ごうとしても急ぎにくい料理なら、体のほうが少し遅くなるかもしれない。
根菜は大きめに切って、火をゆっくり通した。大きい根菜は冷めるのにも食べるのにも時間がかかる。黒パンは切らずに丸のまま、ちぎる手間ごと膳にのせた。膳を整えるあいだ、ポポが調理台の端からじっと手元を見ていた。
「いそがしい膳では、ないな」
「はい。いそげない膳です」
ポポはひとつ上下して、食堂のほうへ戻っていった。
熱くて一気には口に運べないスープと、ちぎって食べる黒パン。配膳しながらゆっくりでいいです、とだけ添える。
旅人は最初、早く食べようとしてスープの熱さに手を止めた。仕方なく、冷めるのを待つ。その待っているあいだに、暖炉の火と窓の外の夕暮れが目に入ったらしい。旅人の肩が少しずつ下りてきた。食堂の隅でポポがふわりとふくらんだ。
二杯目の匙のあたりで、旅人がふと口をひらいた。
「勘定が、ひとつ合わなくて。三日、追いかけてるんです」
「……それは、気になりますね」
「いや、飯のときに、する話じゃなかった」
首を振って、パンをちぎった。それきり勘定の話はしなかった。かわりに、スープの根菜がうまい、と言った。
翌朝、旅人は言葉どおり、早く発とうとした。その手に、木漏れ日のパンを渡す。黒パンを暖炉で焼き直して香ばしくし、持ち運べるように包んだものだ。温めた牛乳は、発つ前に少しだけ添えた。
「どこか木漏れ日のあるところで、一口だけでも立ち止まって、食べてください」
受け取って、少し驚いた顔をした。
「灯りの油は、足りましたか」
「それが、途中で眠くなりまして。勘定を追いかけるのは、やめました。あんなに早く寝床へ入ったのは、久しぶりです」
「飯を待つ時間というものが、あるんですな」
「待つ時間も、食事のうちです」
旅人は宿を発った。霧明古道を西へ歩いていく途中で、木漏れ日の落ちる場所に立ち止まって包みを開くのが玄関から小さく見えた。
ミラとポポと、三人で玄関に立っていた。ポポはすっかり丸い。
「いい朝飯だった、と思う。たぶん、あの客もそう思ってる」
ミラがめずらしく、そんなふうに言った。
「悩みが消えたわけではないと思います。でも、今日は少し歩けるかもしれません」
「それで、いい」
ミラは前掛けの物入れから銅貨を出して、手のひらで一度だけ数え直した。宿代に、心づけがひとつ。
「先月の足りんぶんにも、少し近づいた」
木漏れ日のなかで、けさ焼いたパンを、誰かが開いている。
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