十日目の、こもれび亭
こもれび亭に来て十日目になった。朝の支度はもう体になじんでいる。朝粥の鍋から湯気が立ち、暖炉のそばではポポが棚の上で丸くなっている。窓から木漏れ日が落ちて、外ではミラが薪を運ぶ音がしていた。
この宿に来た最初の朝は眠れていない部分ばかりが目についた。今朝はこの宿のよく眠れる部分が先に見える。
朝の手があいたとき、まかない日誌を最初から読み返した。最初のページは二日目。その夜に、初めて書いた字だ。卵粥と、すこしだけ勝手に動いた気がした湯気のこと。短い記録には、ここで変わってきたことが少しずつ残っている。日誌の字は、はじめよりやわらかくなっていた。
慣れてきた、と書きそうになって、手が止まる。慣れる、はよくない言葉だ、とポポが言った。少しずつ、この宿になじんできた。そう書き直す。
昼にミラへ十日分の宿帳を見せた。この十日で客は数えるほどしか来ていない。けれど来た客はみんなちゃんと眠って発っていった。
ミラは宿帳に目を落としたまま、棚から干し野菜の束を一つずつ卓へ下ろしはじめた。こちらが日付と客の数を読み上げるあいだ、その指は勝手に束を数えていく。乾いた葉の匂いが宿帳の紙の匂いにまじった。
束はぜんぶで八つあった。それを多いほうと少ないほうに分けていく。数えるというより、手が覚えている分け方だった。
「次の市までは、持つ」
少ないほうの束を、昼の鍋の脇へ寄せておく。
「客は、少ない。でも、お前が来てから、宿の空気が変わった」
「私は、たいしたことは……」
「灯りの位置を直して、寝具を整えて、夜更けに薄いスープを出して、肩の張った客に立ち止まる朝飯を渡した。それを、たいしたことない、と言うな」
灯りや寝具やスープのことを一つずつ数え上げられたのは初めてだった。たいしたことではない、と思っていた一つひとつにミラはちゃんと名前をつけてくれた。
昼は、脇に寄せておいた干し野菜を鍋に落とした。水にひたすと、乾いて縮んでいた葉が、少しずつ元の色をとり戻していく。塩をひとつまみだけ。煮えるのを待つあいだに、宿帳はもう棚の上へ戻っていた。
二人で椀をひとつずつ空にした。ミラは、二杯目には手を伸ばさなかった。こちらも、伸ばさなかった。残ったぶんは、夜の鍋に回す。棚のいちばん端の、いちばん軽くなった束だけは、市の日まで手をつけずにおいた。
午後、ポポが食堂を漂い、十日目の宿の空気を確かめるようにふわふわと巡った。最後にこちらへ来て、目の高さで丸くなる。
「この宿は、十日前より丸い」
「灯里も、十日前より、少し丸い」
「……そうですか」
「まだ、半分だがな」
思わず笑ってしまった。
「半分でいいです、とよく言うので」
「ポポにも、それを言うのか」
「はい。半分で、いいです。ポポも、私も」
夕方、玄関の灯りを直した。この宿に来た最初の日、弱くて旅人が入りづらいと感じた、あの灯りだ。
芯を少し上げてみる。上げすぎたのか、炎の先が揺れて、灯り皿の上に細い煤の筋が立った。慌てて芯を戻すと、今度は光が沈んで、玄関の板の目までが暗くなる。
いったん火を落とした。ガラスが冷めてから内側の煤を布で拭うと、布は拭いた先から黒くなった。
火を入れ直し、芯をほんの少しずつ上げていった。強すぎず、弱すぎず。夜の古道から歩いてくる人の目の高さに合うくらいに。
ミラが古道の側まで出て、そこから灯りをふり返って見た。
「もう少し」
言われたぶんだけ、芯を上げる。
「そこだ」
古道から見て、ちょうどいい明るさになったらしい。十日かけて少しずつ直してきた灯りが、外から来る人の目の高さで、ようやく決まった。
ミラが古道からこちらへ戻ってきて、灯りの横に立った。
「この灯りなら、迷った旅人も見つけやすい」
「はい。……誰か、来るといいんですが」
「来る。こもれび亭は、必要な人には見つかる宿だ」
二人で、灯りのともった玄関をしばらく見ていた。
夜、十日目の日誌を書き終えようとして、ペンを止めた。いつもの三行のあとへもう一行だけ書き足す。
灯里のまかない日誌より
十日目。
朝粥、香草を少し。
ポポが、半分、丸い。
──この宿に、居てもいいのかもしれない。
十日が過ぎた。まだ帰る方法は知らない。それはたぶんこわいことのはずだった。でも今夜はそれを考えずにいられた。玄関の灯りが夜の森に向かってともっている。明日、その灯りを誰かが見つけてくれたら──そう思いながら、暖炉の火を落とした。
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