↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こもれび亭へようこそ 〜異世界宿屋のまかない日誌〜  作者: 山田鰻
第一部 こもれび亭再出発編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/34

湯気の中の、小さな居候

灯里のまかない日誌より

六日目。

湯気の中に、ずっといたらしい。

名前は、あとでわかった。


こもれび亭に来て六日目の朝。厨房に立つようになってから、小さな気配がずっとそばにあった。湯気がふいに揺れたり、葉が一枚落ちていたり。前掛けの端が動いたり、廊下の隅で何かが丸くふくらんだり。気のせいだと何度も思おうとして、もう思えなくなっていた。


今朝はわざと湯を多めに沸かした。湯気をたっぷり立てて、待ってみる。何かがいるなら、湯気が好きなら、出てくるかもしれない。


湯気は立った。けれど、何も出てこない。鍋の前でしばらく待って、湯だけが減っていく。誰もいない厨房に向かって、どうぞと小さく声まで出してしまい、急に気恥ずかしくなった。それでも湯を足して、もう一度沸かし直す。


厨房の湯気が朝の光のなかで白い柱になって立ちのぼる。その柱の真ん中あたりに、丸い影が現れた。今度は消えない。手を止めて声も出さずに見つめた。影はゆっくり湯気を吸って、少しずつふくらんでいく。手のひらにのるくらいの大きさで、木の葉と湯気の中間のような質感をしている。小さな目がふたつこちらを見上げた。


影は偉そうに短く言った。


「よい湯気だ」


「これは、よく沸かした湯気だ」


ようやくゆっくりと息を吐いた。


「あなたが……ずっと、いたんですか」


影は答えず湯気をもう一口吸って、さらに丸くなる。


「ポポは、よい湯気のあるところにいる」


「ここは、最近、湯気がよくなった」


ポポという名を初めて聞いた。しゃがんで目線を合わせると、ポポは前掛けのポケットに目を留めた。香草茶の葉が一枚はさまっているのに気づいて、少し嬉しそうにふくらむ。


ミラが食堂に降りてきて、ポポを見ても特に驚かなかった。


「ああ。ポポか」


「出てきたか」


「ミラさん、知って……」


「祖母の代からいる。宿の、古い住人みたいなものだ」


「森の精霊だと、祖母は言っていた。それ以上は、わたしも知らん」


精霊という言葉を、不思議と素直に受け取れた。


「この宿には、そういうものがいるんですね」


「客が減って、湯気も減って。ポポも、しばらく出てこなかった」


ミラはポポを見て、ほんの少しだけ表情をゆるめた。


朝の粥ができて、つい椀をみっつ並べてしまった。


「器は、いらん」


「ポポは、湯気を吸う」


言われたそばから、ポポは粥の椀の上へ移ってきて、立ちのぼる湯気の真上でゆっくりふくらんだ。白い湯気が丸い底へ吸い込まれて、椀のまわりだけ湯気が細くなる。


「あの、お粥のほうは」


「いらん。……たまに、米をひと粒だけ食う」


ミラの言葉が終わらないうちに、ポポは椀のへりへ降りた。米をひと粒、大事そうに転がしてから口に入れる。ひと粒で、また少しふくらむ。みっつ目の椀は棚へ戻した。


粥のあいだじゅう、ポポは食卓の真ん中にいた。誰の椀の湯気がよく立っているか、行ったり来たりして確かめている。ミラは気にするふうもなく匙を動かしていた。祖母の代からいるという言葉の意味が、その慣れた食卓の景色で少しわかった。


ポポは厨房を出て、宿のあちこちをふわふわと巡った。立ち止まるのは、暖炉の前・客室の窓辺・廊下の隅。どれも、宿のなかで落ち着く場所だ。


廊下のいちばん奥、雨の日にだけ開くあの引き戸の前でも、一度だけ止まった。閉じた戸を見上げて、小さく上下する。


「そこは、今日は開きませんよ」


「知っている。よい部屋だ」


また、ふわりと漂っていった。


最後にポポは目の高さまで浮いてきて、じっとこちらを見た。それから少しだけしぼんだ。


「灯里の周りだけ、湯気がうすい」


「ちゃんと休んでいないやつの匂いがする」


何と答えればいいか、言葉に詰まった。


「……大丈夫です。慣れてますから」


ポポはぷうと小さくふくれた。


「慣れる、というのは、よくない言葉だ」


「ポポは、知っている」


何も言えずに、手にしていた布巾を意味もなくたたみ直した。図星をなかったことにするみたいに。厨房から、ミラがその様子を黙って見ていた。


夜、片づけを終えると、ポポは暖炉の前でもう丸くなって眠っていた。起こさないよう、灯りを少し弱める。ポポは寝言で、ぽつりと言った。


「……よい、湯気……」


思わず小さく笑ってしまった。声を出して笑ったのは、この宿に来てから初めてかもしれない。その夜は、いつもより少し早く部屋に戻ることにした。


暖炉の火を落としながら、手にした布巾をまたたたみかけて、今度はそのまま調理台に置いた。


暖炉の前で、ポポの寝息だけが小さく続いていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。

リアクションやブックマークも本当にありがたいです。


もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。