湯気の中の、小さな居候
灯里のまかない日誌より
六日目。
湯気の中に、ずっといたらしい。
名前は、あとでわかった。
こもれび亭に来て六日目の朝。厨房に立つようになってから、小さな気配がずっとそばにあった。湯気がふいに揺れたり、葉が一枚落ちていたり。前掛けの端が動いたり、廊下の隅で何かが丸くふくらんだり。気のせいだと何度も思おうとして、もう思えなくなっていた。
今朝はわざと湯を多めに沸かした。湯気をたっぷり立てて、待ってみる。何かがいるなら、湯気が好きなら、出てくるかもしれない。
湯気は立った。けれど、何も出てこない。鍋の前でしばらく待って、湯だけが減っていく。誰もいない厨房に向かって、どうぞと小さく声まで出してしまい、急に気恥ずかしくなった。それでも湯を足して、もう一度沸かし直す。
厨房の湯気が朝の光のなかで白い柱になって立ちのぼる。その柱の真ん中あたりに、丸い影が現れた。今度は消えない。手を止めて声も出さずに見つめた。影はゆっくり湯気を吸って、少しずつふくらんでいく。手のひらにのるくらいの大きさで、木の葉と湯気の中間のような質感をしている。小さな目がふたつこちらを見上げた。
影は偉そうに短く言った。
「よい湯気だ」
「これは、よく沸かした湯気だ」
ようやくゆっくりと息を吐いた。
「あなたが……ずっと、いたんですか」
影は答えず湯気をもう一口吸って、さらに丸くなる。
「ポポは、よい湯気のあるところにいる」
「ここは、最近、湯気がよくなった」
ポポという名を初めて聞いた。しゃがんで目線を合わせると、ポポは前掛けのポケットに目を留めた。香草茶の葉が一枚はさまっているのに気づいて、少し嬉しそうにふくらむ。
ミラが食堂に降りてきて、ポポを見ても特に驚かなかった。
「ああ。ポポか」
「出てきたか」
「ミラさん、知って……」
「祖母の代からいる。宿の、古い住人みたいなものだ」
「森の精霊だと、祖母は言っていた。それ以上は、わたしも知らん」
精霊という言葉を、不思議と素直に受け取れた。
「この宿には、そういうものがいるんですね」
「客が減って、湯気も減って。ポポも、しばらく出てこなかった」
ミラはポポを見て、ほんの少しだけ表情をゆるめた。
朝の粥ができて、つい椀をみっつ並べてしまった。
「器は、いらん」
「ポポは、湯気を吸う」
言われたそばから、ポポは粥の椀の上へ移ってきて、立ちのぼる湯気の真上でゆっくりふくらんだ。白い湯気が丸い底へ吸い込まれて、椀のまわりだけ湯気が細くなる。
「あの、お粥のほうは」
「いらん。……たまに、米をひと粒だけ食う」
ミラの言葉が終わらないうちに、ポポは椀のへりへ降りた。米をひと粒、大事そうに転がしてから口に入れる。ひと粒で、また少しふくらむ。みっつ目の椀は棚へ戻した。
粥のあいだじゅう、ポポは食卓の真ん中にいた。誰の椀の湯気がよく立っているか、行ったり来たりして確かめている。ミラは気にするふうもなく匙を動かしていた。祖母の代からいるという言葉の意味が、その慣れた食卓の景色で少しわかった。
ポポは厨房を出て、宿のあちこちをふわふわと巡った。立ち止まるのは、暖炉の前・客室の窓辺・廊下の隅。どれも、宿のなかで落ち着く場所だ。
廊下のいちばん奥、雨の日にだけ開くあの引き戸の前でも、一度だけ止まった。閉じた戸を見上げて、小さく上下する。
「そこは、今日は開きませんよ」
「知っている。よい部屋だ」
また、ふわりと漂っていった。
最後にポポは目の高さまで浮いてきて、じっとこちらを見た。それから少しだけしぼんだ。
「灯里の周りだけ、湯気がうすい」
「ちゃんと休んでいないやつの匂いがする」
何と答えればいいか、言葉に詰まった。
「……大丈夫です。慣れてますから」
ポポはぷうと小さくふくれた。
「慣れる、というのは、よくない言葉だ」
「ポポは、知っている」
何も言えずに、手にしていた布巾を意味もなくたたみ直した。図星をなかったことにするみたいに。厨房から、ミラがその様子を黙って見ていた。
夜、片づけを終えると、ポポは暖炉の前でもう丸くなって眠っていた。起こさないよう、灯りを少し弱める。ポポは寝言で、ぽつりと言った。
「……よい、湯気……」
思わず小さく笑ってしまった。声を出して笑ったのは、この宿に来てから初めてかもしれない。その夜は、いつもより少し早く部屋に戻ることにした。
暖炉の火を落としながら、手にした布巾をまたたたみかけて、今度はそのまま調理台に置いた。
暖炉の前で、ポポの寝息だけが小さく続いていた。
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