雨の日だけのお客さま
灯里のまかない日誌より
五日目。
雨の日のスープ、黒パン、温めた牛乳。
名のない客が、ひとり。
細かい雨の音で目が覚めた。客室の小さな窓に、霧のような雨が休みなく当たっている。
着替えて廊下へ出ると、扉のすぐ前にたたんだ前掛けと薄手の上着が置いてあった。ミラの予備の上着らしい。書き置きもメモもなく、ただ使え、ということなのだろう。上着を持ち上げると、まだほのかに薪と森の匂いがした。
食堂へ降りると、ミラがもう洗い物をしていた。手元をのぞくと、桶の縁を持つ指に少し力が入る。ミラの器とゆうべ使った器が、宿主のぶんと居候のぶんに分けられることなく、同じ桶でまとめて洗われている。たったそれだけのことが、この宿の内側へ半歩入れてもらえたようで嬉しかった。
ミラは雨音に耳をかたむけるようにして、短く言った。
「雨の日は、来るかもしれん」
「来る、というのは」
「客だ。もう一部屋、開けておけ」
ミラが指したのは、廊下のいちばん奥の引き戸だった。これまで、開けようと思ったこともない戸だ。
「あの部屋、開くんですか」
「雨の日には、開く。掃除しておけば、見ればわかる」
それ以上は説明してくれなかった。ミラは廊下の途中にある別の引き戸もついでのように目で示す。細く開いた隙間から古い帳簿が天井近くまで積み上がっているのが見えた。
「そっちは、触らんでいい。今は」
今は、という言葉だけが、雨音のなかに残った。聞いていいことと、まだ聞かないでおくことがこの宿にはある。前にもそう思ったのを思い出した。
廊下のいちばん奥の引き戸に軽く力を入れると、思ったよりすんなり開いた。
部屋は、たしかにあった。
普段はそこに部屋があると意識したこともなかったのに、いま戸を開けると、ひとつぶんの客室がちゃんとある。天井はやや低く、窓は森に向いて小さくひとつ。雨音がほかのどの部屋よりもよく届いた。
寝具に触れてみて、少し驚いた。これだけ湿った日なのに、寝具は不思議と乾いている。窓の外で雨に濡れた葉が、部屋のなかの薄明かりをやわらかく弾いていた。整えるところは多くない。それでも毛布の位置をなおし、灯りを雨の日の暗さに合わせ、暖炉のそばの椅子の向きをすこし変えた。
後ろから、ミラの声がした。
「お前、よく見えてるな」
手を止めて振り向くと、ミラはもう背を向けて廊下を戻っていくところだった。短い一言だったけれど、見ているものをそのまま言い当てられた気がして、しばらく戸口に立っていた。
ただ、灯りや寝具を整えすぎると、手の感覚が少し遠くなる。気づくと、整え終えた部屋の真ん中でぼんやり立っていることがあった。誰かが眠りやすい場所は見えても、その人のかわりに眠ってあげられるわけではない。
昼を過ぎて、玄関の鈴が低く鳴った。外套を深くかぶった男が雨のなかに立っている。旅装は古いけれど手入れが行き届いていて、小さな荷は油布できちんと包んであった。男は土間に上がる前に、外套の雫を玄関の桶へ絞り、濡れた靴を脱いでそろえた。
ミラは多くを聞かず、「奥の客室を取ってある」とだけ言った。
「久しぶりに、雨の日に通りかかりました」
男はそれだけ答えた。宿帳を差し出すと、本名を書くかわりに古い旅印をひとつ、ていねいに押す。名前の欄を見て言いかけるとミラが静かに言った。
「印で足りる旅人もいる」
帳場に銅貨を一枚ずつ数えて並べ、三枚置いたあとに、雨が強かったからともう一枚足した。
厨房に立つと、ミラが一言だけ残して出ていった。
「雨の日は、軽い汁物がいい。あとは、お前が見て決めろ」
雨の日の客室と、雨音と、男の濡れた外套を思い浮かべる。いま必要なのは、冷えた体をゆっくりほどく汁だ。根菜を細かく刻み、長く煮込まずに火を通す。湯気が立ったところで香草を少し強めにきかせ、黒パンと温めた牛乳を添えた。薪が湿気で鈍らないよう布をかけておくことも忘れない。
雨の日のスープと黒パンを奥の客室へ運んだ。男は窓辺で雨を見ていた。外套は脱がないまま、椀を両手で受け取る。湯気が顔に届くと、雨にこわばっていた肩が、ほんの少し下りたように見えた。
ひと口飲んで、男はしばらく椀を手のなかにとどめた。冷えた指に温かさが戻るのを、確かめるような持ち方だった。
「このスープを、また食えるとは思いませんでした。昔、ここで一度、似たものを」
その先は聞かずにおいた。
「全部でなくても、ご自由に」
そう伝えると、男はかすかに笑った。窓辺に立ったままの外套の肩の線が、少しずつゆるんでいく。雨音が大きくなって、客室の灯りが小さく揺れる。この部屋は、雨の日のためにずっとここで待っていたのかもしれない、とふと思った。
翌朝、雨は上がっていた。奥の客室をのぞくと、寝具はきちんとたたまれ、椀には底にスープがひと口ぶんだけ残っている。黒パンは半分残してあって、ミラと昼に分ければちょうどよさそうな量だった。宿帳には、昨日の旅印のとなりに小さく「ご馳走になりました」とだけ書かれている。男は朝の早いうちに発ったらしく、帳場には宿代の銅貨に加えて心づけが二枚置いてあった。
廊下にミラが立っていた。
「あの方、どなただったんですか」
「雨の日に、また来る」
ミラはそれだけ答えた。廊下の隅の影がほんの一瞬、丸い湯気のようにふわりと揺れた気がしたけれど、ミラもこちらも何も言わなかった。
雨の日にだけ現れる客室を、この日、初めて知った。知っただけで、それ以上は問わずにおく。雨の上がった森がしずかに湯気を立てていた。
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