湿気た薪と、湯屋の朝
灯里のまかない日誌より
四日目。
客はゼロ。
ミラさんと、湯屋の煙突を直した日に飲む香草茶。
朝、薪棚から薪を取り出したミラが顔をしかめた。棚の下の段が夜のあいだに湿気を吸ってしっとりしている。
「これは、火が立たん」
下の段の薪を上へ移し、湿った棚板は乾くまで空けておいた。手を動かしながら棚の奥を見ると、板壁とのあいだの隙間が落ち葉と埃で詰まり、風の通り道をふさいでいる。指で少しずつかき出して、空気が抜けるようにしておいた。ミラは何も言わなかったけれど、薪棚の前にしばらく立って、その手元を見ていた。
湯屋で湯を沸かそうとしたミラがすぐに咳き込んだ。湿った薪のせいで、煙が天井の低い湯屋にこもり、外へ抜けずに逆流している。すぐに窓を開け、火床にたまった灰を少しかき出して、空気の通り道を作った。
それでも煙の引きが悪い。ミラと二人で外へまわって煙突の根元を確かめると、古い枯れ葉と苔の塊が煙の通り道をふさいでいた。
「祖母の代から、ここは詰まりやすい」
ミラがそう言うあいだに、細い棒で詰まりを少しずつ崩して取り除いた。湯屋へ戻ってミラが火を入れ直すと、今度は煙がまっすぐ立ちのぼっていく。
火が落ち着いたころ、ミラがこちらを見て言った。
「お前、灯りや火の通り道ばかり、見てるな」
「あ……すみません」
「謝ることじゃない」
湯が沸くまでのあいだ、二人で湯屋の入口に並んで座った。屋根の上から朝の光が差して、湿った煙の匂いが少しずつ薄れていく。
「うちで働くやつが、湯屋の煙突に頭を突っ込むのは、久しぶりだ」
「すみません、出すぎたかもしれません」
「いや。助かった」
助かった。
その言葉に、思わずミラの横顔を見てしまった。役に立った、と言われたことは何度もある。けれど、助かった、とまっすぐ言われたのはずいぶん久しぶりだった気がする。
その日は客が一人も来なかった。霧明古道を歩く旅人の姿もない。
帳場で宿帳をつけ、物干し場で毛布の乾き具合を確かめ、裏手の畑の様子を見てまわった。畑には、名前を知らない香草がよく手入れされた畝にいくつも育っている。誰かが、こまかく世話をしてきた畑だ。畝の隅に小さな乾燥棚がひとつ置いてあって、誰のものだろうと思ったけれど、ミラに聞きそびれてしまった。その棚にたまった埃を、布でそっと払っておいた。
夕方、物干し場で乾いた毛布を取り込んでいると、前掛けの端が風のない場所でふっと揺れた。振り返っても誰もおらず、木漏れ日だけが地面で揺れている。
毛布を抱え直そうとして、籠を取り落とした。毛布が一枚土の上に落ちても、声は出なかった。拾い上げて土を払い、もう一度物干しにかけ直してから、その場に少しだけしゃがみこんだ。大丈夫、慣れている。そう思おうとして、うまく思えない。厨房の窓からミラがこちらを見ているのに気づいたけれど、ミラは何も言わなかった。
夜、食堂を片づけ終えたころ、ミラが温かい香草茶を二杯持って降りてきた。
「飲め」
「ありがとうございます」
「煙突を直したやつには、これを出す。うちのやり方だ」
祖母から受け継いだやり方なのだろう。ミラは香草茶を一口飲んでから、こちらを見ずに言った。
「客が来ない日は、宿も、少し休ませる」
「……休ませる、ですか」
「これは、仕事を止める練習だ。お前はまだ、止め方を知らんだろう」
うまく返事ができないまま、香草茶の湯気を見ていた。両手のひらに椀のあたたかさがゆっくりしみてくる。客がゼロの日にも宿は仕事をするものだと思っていたのに、ミラは宿を休ませると言った。
その夜、飲み終えた香草茶の葉を一枚、捨てずに宿帳のあいだへ挟んだ。止め方は、まだわからない。それでも、覚えておきたい夜だった。
窓の外で、雨の匂いがし始めていた。明日は雨が来るらしい。
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