夜更けの薄いスープ
灯里のまかない日誌より
三日目。
夜、薄いスープを一杯。
旅人ひとり、半分まで。
朝のうちは、ミラと二人で宿の手入れにかかった。ミラが薪棚の前で斧を振るあいだ、客室の毛布を一枚ずつ確かめ、湿りの残るものを物干し場へ運ぶ。窓ぎわの灯り台がひとつ、扉を開けると影になる位置にあったので、少しだけずらしておいた。ミラは振り返らなかったけれど、その晩には気づくだろうと思う。
薪棚を見たミラが、短く言った。
「薪、足りるか」
「明日には、少し足したいです」
「わかった。雫村に出る日を考える」
雫村という名を聞いたのは初めてだった。森の外に村があって、そこまで歩いていける。それだけのことが、この宿も世界のどこかにつながっているのだとあらためて教えてくれる。
昼は残り野菜を炒めたものと黒パンで簡単にすませた。食べ終えると、ミラは今月の宿帳を一冊だけ食卓に広げた。最近の客の出入りを記したものだ。
「先月より、銅貨で五枚、足りん」
ひとりごとのようなその声に、つい口をはさんでしまった。
「私のぶんの賃金は、計上を遅らせていただいてもかまいません」
ミラはページから目を上げずに答えた。
「お前のぶんは、お前のぶんだ」
それ以上は何も言わなかった。客の銅貨と自分の銅貨を、ミラはきちんと分けている。賃金を後回しにされるのには慣れていたから、その線引きが少しだけ不思議であたたかかった。
夕方、物干し場で乾いた毛布を取り込んでいると、ミラがふいに言った。
「この物干し場は、祖母が決めた向きだ」
手を止めてミラの横顔を見る。
「西日に当てると、毛布の匂いが甘くなるからと。理屈は、わたしにもわからん」
「お祖母さま、ですか」
「もういない。──でも、宿の角々に、まだ居る」
ミラは毛布を抱え、先に戻っていった。聞いていいことと、まだ聞かないでおくことが、この宿にはあった。物干し場の柱にも、台所の棚の位置にも、会ったことのない人の手が残っている。
夜の食事には、野菜のシチューを作った。ミラは椀を二度よそって、ちゃんと食べた。配膳をしながら、こちらの椀には浅くよそって、半分も口をつけないうちに空いた皿を下げ始めてしまう。
「食ってないだろう」
ミラの声に、手が一瞬止まった。
「あとで、食べます。仕込みを先に終わらせたくて」
ミラは何か言いかけて、やめた。厨房に戻りながら、手だけが先に動いていく。あとで、と口にするたび、その「あとで」が少しずつ積み上がっていく。
夜が更けたころ、玄関の鈴が低く鳴った。外に立っていたのは商人風の中年の男だった。霧明古道を歩き通してきて、足取りは重い。腹は空いているはずなのに、もう何も入らないという顔をしている。ミラが客室へ案内する前に、男は帳場に宿代の銅貨を並べ、宿帳へ名を書いた。
厨房に立って、夜更けの胃に何を出すかを考える。夕食のシチューの煮汁が鍋に少し残っていた。もう一度火にかけ、具を避けて湯で薄くのばす。香草は控えめに、塩もごく少なくした。卵は落とさず、脂も浮かさない。固いパンを小さくちぎって添え、湯気が逃げないよう布をかぶせて客室へ運んだ。
旅人は椀を受け取ると、少し戸惑った顔をした。
「半分でいいです。朝は、また温かいものを出します」
「半分でも、いいんですか」
「夜更けの胃に、ぜんぶ入れる必要はありません。夜にちゃんと食べられるものを置いておく。それも宿の仕事ですから」
旅人はスープを半分ほど飲んで、椀を置いた。それでいい。明日の朝は、温かいスープと炙ったパンを出せばいい。
食堂を片づけ終えて、暖炉の前に座った。シチューの椀がひとつ、席に残ったまま冷たくなっている。温め直そうかと思いながら、立ち上がれないままだった。
暖炉のそばに、小さな葉が一枚落ちていた。窓は閉めている。首をかしげて、それでも捨てる気になれず、暖炉のへりにそっと置き直した。
廊下の奥から、寝間着姿のミラが食堂をのぞいた。
「もう休め。明日も早い」
「はい」
灯りを落とす前にふと気づいた。あの椀は、流し場ではなく食卓に残されたままだ。のぞきに来たミラも、片づけずにおいたらしい。
夜の宿は、一日でいちばん静かな顔をする。その静けさのなかでも、まだ誰かのために手を動かし続けてしまう。それでも、冷めた椀がひとつ席に残っているのを見て、灯りを消す手が少しだけ遅くなった。
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