まかない係、はじめました
目が覚めると、窓の外はまだ薄暗かった。見慣れない木の天井をしばらく見上げて、ここがどこなのかを思い出す。森のなかの宿、こもれび亭。昨日、薪を背負ったミラという女性に拾われて、客室をひとつ借りている。昨夜のうちに毛布の位置と窓ぎわの椅子を直し、灯りを弱めておいたおかげか、いつもの夜勤明けよりはいくらかましな目覚めだった。
体を起こすと、考えるより先に手が動いた。ホテルの制服のしわを手のひらで伸ばし、ほつれた髪を結び直して、水を使えそうな場所を探す。帰る方法はまだ何もわからない。それでも、世話になった宿でただ眠って待っているのは、どうにも落ち着かなかった。何かひとつでも返したい。
部屋を出ると、宿はしんと静まっていた。ミラはまだ起きていないらしい。昨夜、食堂の隅で遅くまで帳簿を開いていたのを見ている。
厨房は煤けた壁の古い土間で、奥に薪の竈があった。使い込まれた銅の鍋がいくつか掛かっていて、棚には保存瓶が並んでいる。残っている食材を見てまわると、少ししなびた野菜・固くなったパン・卵がいくつか見つかった。薄い塩と、乾いた香草の束もある。ありあわせばかりだけれど、これだけあれば朝のものはじゅうぶんに作れる。
厨房の隅の薪の束が、土間の湿った壁ぎわに寄りすぎていた。これでは火がつきにくい。気づいたときには手が動いて、束を壁から少し離し、乾いていそうなものを上へ積み直していた。火を起こして湯を沸かし、水を汲んで野菜を洗う。借りた包丁は少し刃が鈍かったので、力の入れ方をそのぶん変えた。手を動かしているあいだは、余計なことを考えずにすむ。それはホテルにいたころからずっと変わらない。
残っていた米を、いつもより多めの水でゆっくり炊いた。やわらかくふくらんだところに溶き卵をまわし入れ、香草をほんの少しだけ散らす。塩は控えめにした。固くなったパンは薄く切って、竈の端で炙り直すと、香ばしい匂いが冷えた土間にゆっくり広がっていった。
粥の鍋から白い湯気がまっすぐ立ちのぼり、その上のほうが、ふいに揺れた。窓は閉めているし、風も入らない。それなのに、何かにそっと押し返されたように、湯気がくるりと巻いた。手を止めてしばらく見つめてみたけれど、湯気はもう、ただまっすぐ立っているだけだった。寝不足で目がおかしくなっているのかもしれない。そう思って、また手を動かした。
食堂に粥と炙ったパンと白湯を並べていると、ミラが階段を降りてきた。寝起きの髪を片手でまとめながら、食卓を見て足を止める。
「これ、お前が作ったのか」
「はい。勝手にすみません。寝具を借りたぶん、何か返したくて」
ミラは椅子に座ると、粥をひと口食べた。表情は変わらない。けれど、二口三口とすすむうちに、黙って匙を運ぶだけになった。
「お前、料理人か」
「いえ。宿で働いていました」
「わたしの祖母も、こういう粥を作った」
そうつぶやいて、それきり黙って食べ続けた。祖母と同じだ、と言ったわりに、その横顔は同じではない何かを確かめているようにも見えた。
食べ終えると、ミラはしばらく空になった器を見ていた。
「行く当てはあるのか」
「……ないです」
ミラは少し黙ってから、短く言った。
「飯を作れるなら、しばらく置く」
「宿のまかない。客の朝食。手伝ってくれ」
「寝床と三食。一日、銅貨ひとつ。足りなければ言え」
無理だと思ったら断っていい、ここはそういう宿だ、とミラは付け加えた。足りないぶんは、宿が黒字に戻ってから帳簿で返すという。
深く頭を下げると、つい、いつもの言葉が口から出た。
「大丈夫です。慣れてますから」
ミラは少しだけ眉を寄せた。
「慣れてる、は、聞かなかったことにする」
それから腰の鍵束から一本を抜いて、食卓に置いた。厨房と物干し場の鍵だという。手のひらに載せると、金属にはまだミラの体温がほんのり残っていて、その鍵をしばらく握っていた。
その日のうちに、湿気を吸った毛布を物干し場へ運んだ。森に面した物干し場は、朝の光がよく届く。一枚ずつ広げていくと、木漏れ日が布の上で静かに揺れた。干し終えた毛布にそっと手を当てると、もう日の匂いがし始めている。明日は薪を割って、客室もぜんぶ見直すとミラは言っていた。やることはこれからいくらでもあるらしい。
夜、客室に戻って、鞄の底から小さな手帳を取り出した。ホテルの忘れ物に紛れていて、結局だれも取りに来なかった無地の手帳を、捨てそびれたまま持っていた。その最初のページに、今日のことを短く書いてみる。何を作って、だれが食べたのか。それだけ書いておく。
灯里のまかない日誌より
二日目。
朝、卵粥。香草を少し。
湯気が、すこしだけ、勝手に動いた気がした。
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