森の宿と、眠れない夜勤明け
地下の朝食会場は天井が低く、コーヒーと焼けたパンの匂いが窓のない部屋に溜まったまま朝になっても薄まらない。
「昨夜はよく眠れましたよ」
出張帰りらしい男性がトーストを齧りながらそう言った。空いた皿を下げる手を止めて、頭を下げる。よく眠れた、と言ってもらえると、まだもう少しはやれる気がする。
「ありがとうございます」
二十代の後半、このビジネスホテルで夜勤をしている。勤務は本来なら朝の七時で終わっていたけれど、朝食担当が一人熱で休んだので、退勤の時刻を過ぎてもまだ会場の床を歩いていた。
パンを補充していると、重ねた皿の一枚がトレーの端で鳴って、小さな音なのに肩が跳ねた。目の下を指で押すと、眠気はもう痛みに近い。何日まともに横になっていないのか、もう数えてもいない。客が眠れる場所を整える仕事は嫌いではないし、むしろ好きだった。
会場の隅では年配の女性客が一人で、時間をかけてゆっくり朝食をとっていた。窓のない部屋なのにその人はパンを急がず、朝の席にいるみたいに見えた。
空いた皿を下げにいくと、女性が顔を上げた。
「夜勤明けなのによく整っているねえ。ありがとう」
うまく言葉が出ないでいると、女性は返事を待たずに続けた。
「昔ね、森のなかの宿で働いていたことがあるよ。あそこもこういう静かな朝が好きだった」
パンを小さくちぎるその手つきが妙にていねいだった。
「あなた、いい宿の人になれそうな顔をしている」
曖昧に笑ってお盆を抱え直したものの、気のきいた返事は浮かばなくて、ありがとうございます、という言葉が喉のあたりでいつもより重い。
女性が朝食を終えて席を立ったあと、テーブルを拭きながら、あの人の名前を思い出せないことに気づいた。チェックアウトの記録を見返しても、どの名前があの人だったのかすぐには結びつかなくて、まあ、お客さんは多いから――そう思って、その小さな引っかかりは忙しさのなかに置いてきた。
退勤したのは九時を少し回ったころで、駅のベンチに腰を下ろすと電車まではまだ数分あった。鞄から携帯電話を出すと、母からの留守電が一件残っている。あとでかけよう、と思って画面を暗くした。
ベンチの背に頭をあずけると、ホームの白い照明がまぶたの裏でゆっくり薄くなっていく。眠ってはいけない、乗り過ごす――そう思った記憶を最後に、意識が途切れた。
※
頬に触れる土の冷たさで目が覚めた。
最初に届いたのは湿った苔の匂いで、それから嗅いだことのない木の匂いがした。どこかで鳥が鳴いているけれど、その声も知っているものではない。体を起こすと、頭上では高い枝が幾重にも重なって、その隙間から細い光がいくつも斜めに落ちていた。
駅のベンチでも見慣れたホームでもなく、知らない森のなかにホテルの制服のまま座り込んでいる。鞄はそばに落ちていたものの、携帯電話の画面には圏外の表示だけが残って、電池はもう半分を切っていた。
立ち上がろうとすると膝から力が抜け、近くの倒木に手をついてようやく体を支えた。夢にしては土が冷たすぎたし、夢から覚めるには目を開けてから時間が経ちすぎている。とにかく人のいる場所を探すしかなくて、低いほうへ低いほうへと木の根を避けながら下りていった。
どれくらい歩いたのか自分でもわからない。やがて足の下の土が踏み固められた感触に変わって、人が通ってできたとわかる細い道に出た。その道の先からこちらへ近づいてくる足音がする。
薪を背負った人が私を見て立ち止まった。
私と同じか少し若いくらいの女性で、はじめは警戒した目をしていた。けれど、ホテルの制服と、たぶんひどいだろう顔色を見て、その目から少しだけ力が抜けたのがわかった。
「歩けるか」
短い問いに、はい、と答えようとして声がかすれた。女性は背負っていた薪を道の脇に下ろすと、私の腕を取って自分の肩に回した。
「水は宿にある。すぐそこだ」
迷惑をかけてすみません、と繰り返す私に、何も言わず前だけを見て歩いた。その肩の貸し方が誰かを支えることに慣れた人のものだと、ぼんやり思った。
森の道を抜けると、木立のあいだに古い木造の建物が見えてきた。軒先に下がった看板は色が褪せていて、「こもれび亭」という文字がかろうじて読める。床は歩くたびに軋んだけれど、食堂に入ったとたん、奥の暖炉と窓から差し込む木漏れ日が、その軋みをどうでもいいことにしてしまった。
女性は私を椅子に座らせると、水と古い毛布を一枚持ってきてくれた。名前も、どこから来たのかも、まだ聞かれていない。
水を飲んで人心地つくと、つい宿のあちこちに目がいってしまう。膝にかけた毛布は清潔なのに、ほんの少しだけ湿気を吸っていた。顔を上げれば、廊下の先に見える客室はきちんと掃除されているのにどこか眠りづらそうで、暖炉があるのに食堂の奥は冷えている。玄関の灯りは弱く、外から来た人にはきっと入りづらい。なにより、この宿の主らしいその女性自身の肩が、たぶんいちばん強く張っていた。
ホテルでもずっとそうやって部屋を見てきた。見たくて見ているわけではなくて、気づくと目がそこへ向いている。
しばらくして、女性が湯気の立った器を運んできた。
「ミラだ。この宿をやっている」
器のなかは野菜のスープで、豪華なものは何も入っていない。それでも、ひと口飲むと、冷えていた体の芯に温かいものがゆっくり戻っていくのがわかった。温かいものを座ってちゃんと食べたのがどれくらいぶりだったろう。
「白瀬灯里です」
名乗ると、ミラは「あかり」と一度だけ繰り返した。行く当てがあるのかも、なぜ制服姿で森にいたのかも、その夜は問われないままだった。
※
その夜、ミラは私を小さな客室に案内してくれた。
布団に入ろうとして、また気づいてしまう。寝具がわずかに湿気を吸っていて、窓の隙間からは夜気が細く流れ込んでいた。このままではたぶん眠りが浅くなる。まぶたは重いのに、手のほうが先に動いた。毛布の位置を変え、窓際の椅子を少しずらし、灯りを夜の暗さに合わせて弱める。それだけのことで、部屋の空気がほんの少しだけ落ち着いた気がした。
布団に戻っても、知らない天井と、知らない木の匂いと、聞いたことのない夜の音にかこまれて、しばらくそのままでいた。それでも、この宿の静けさには不思議と嫌な感じがなかった。
目を閉じると、朝食会場で会ったあの女性のことをふと思い出しかけた。森のなかの宿で働いていた、と言っていた人。けれど、その続きにたどり着く前に、眠気のほうが先に来た。
この宿は、たぶん眠り方を忘れている。
そして私も、たぶん同じだった。
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