初夏の宿で
朝いちばんに、井戸の水を多めに汲んでおいた。
ゆうべミラが言っていた。明日は水を多めに、と。理由は聞かなかったけれど、言われたとおりに桶を満たしておく。初夏の朝の光が物干し場の竿に長く伸びて、空気は朝でもぬるい。
朝餉の支度をする。鍋から粥をよそって机に椀を出す。机の向こう側にも椀を一つ。ゆうべ座った席に、今朝も椀を置いた。二人で食べて、二人で片づけた。
昼前に玄関の鈴が鳴った。出ると、リコが立っている。
「こんにちは。近くまで来たので」
「いらっしゃい。お茶でも」
リコは上がりかけて、それから思い出したように言った。
「あ、そうだ。こもれび亭に泊まったっていう行商の人、雫村の市で見ましたよ。市の端で、腰かけて団子食べてました」
「そうですか。……よかった」
声が、思っていたより少しだけ揺れた。
「あ、私、このあともう一件あるんです」
リコは湯を一杯だけ飲んで、すぐに立った。来たときと同じ勢いで、古道のほうへ戻っていった。
午後、手のあいたときにまかない日誌をつける。今日が何日目か、指で少し数えてみた。
数えてみると、宿に来てひと月を越えていた。
来たばかりのころは、一日が長かった。知らない天井・知らない木の匂い・知らない夜の音。一つずつ数えて越えていた。今は朝が来て、まかないを作るうちに夜になっている。探さなくても手が届くものが、少しずつ増えた。
日誌をはじめのほうから繰ってみる。十日のころの字は、まだ固かった。今日の字は、それより少しやわらかい。二日目の頁には、卵粥と香草のこと。そのあとに、湯気が勝手に動いた気がした、とある。今日の頁には、団子の話と二人で食べた朝のことを書いた。
夕方、ミラが帳場の宿帳を覗いて、短く言った。
「来月のはじめ、一部屋空けておけ」
「はい。一部屋ですね」
「月に一度、決まった日に来る客がいる」
名前も、どんな人かも、ミラは言わなかった。聞かないでおいて、宿帳の隅に来月の予定を一行だけ書き添えた。まだ会ったことのない客のための一行だった。
ポポは食堂の隅にいる。夕方の光のなかで、ときどき寝返りを打つように転がっては、また体を丸めた。
宿のなかをひととおり見てまわった。井戸の水桶は満ちている。厨房の棚には、豆の袋と乾燥棚の薬草。物干し場の毛布は日の匂いをためている。リコの豆・ネムの薬草・直した雨樋・がたつかない椅子。
夕方になって玄関の灯りをともす。灯り台の位置を確かめ、古道の側へ向けた。
灯りがともると、宿帳の隅の一行が、机の上で小さく目についた。来月、まだ会わぬ客の来る日。名前も知らない誰かのために、部屋を一つ空けておく。
玄関の戸を開けると、古道のほうへ、灯りがひとすじ伸びていた。
灯里のまかない日誌より
三十四日目。
数えてみたら、ひと月を越えていた。
行商の人は、次の市で団子を。
朝も夜も、二人で。
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