もう一人ぶんの席
朝から水に浸けておいた干し豆が、夕方にはふっくらとふくらんでいた。指でつまむと、芯まで水を吸ってやわらかい。
客の少ない日がまた続いている。古道のほうは、今日も静かだった。鈴は一度も鳴らない。きのうの朝、行商の客を見送ったきりだった。
豆を小鍋に移して、やわらかく煮る。乾いて硬かったものが湯のなかで少しずつほどけて、白い湯に薄い豆の色が移っていく。初夏の香草を刻んで落とすと、青い匂いが立った。
立ったまま、椀をほとんど残していた人に出したのと同じ豆を、今夜は二人ぶんの夕餉に煮ている。
煮るときは強い火にしない。豆が踊らないくらいの火で、じっくり煮る。急ぐと、皮だけ破れて中が硬いまま残る。
食堂の机に、椀を二つ出す。湯気が夕方の薄暗さのなかでまっすぐ立った。
ミラの椀を先に満たす。豆と汁をたっぷりよそって、机のいつもの場所へ置いた。
それから、もう一つの椀に少しだけ移す。半分にも満たないくらいだった。立ったまま、厨房の入口で済ませようとする。前から、そうしてきた。先に人へ出して、後で、立ったまま手早く。ホテルでも、賄いは立ったまま五分で済ませていた。座って誰かと向かい合って食べる時間は、いつも後回しだった。
ミラが机のほうからこちらを見ていた。匙を持つ手を止めている。
「座れ」
短い声だった。
「……大丈夫です。慣れてますから」
ミラは引かなかった。立ち上がって、こちらの椀を手に取る。鍋から豆と汁を足して、自分の正面の席へ置いた。椀は、ミラのと同じくらいに満ちていた。
「二人ぶん、作ったんだろ」
返す言葉がすぐには出てこなかった。片方を立ったまま食べるつもりでいたのを、見抜かれていた。
机の向こう側へゆっくり回る。いつも立ったまま、横で食べていた場所ではない。向かいの席に椀が一つ置かれている。湯気がまだ立っていた。
その席の椅子に、座る。
座ってしまうと、目の高さが変わる。いつもは立って見下ろしていた食卓が、今は目の前にある。湯気が顔の近くでゆっくりほどけた。誰かに出すための湯気ではなく、目の前の椀から上がる湯気だった。それが、少し落ち着かない。
椅子は、掃除で動かすたびに少しがたついていた。直すのは後回しにしてきた。けれど今夜は、腰を下ろしても座面が揺れない。
椅子の脚の下を覗いてみた。新しい木の楔が一つ、噛ませてある。削りたての白い木の色で、ささくれ一つない削り口だった。ついこのあいだまで、鳴っていた椅子だ。
ミラは匙で豆をすくって、口に運んでいる。
礼の言葉は、口に出さなかった。代わりに、座面に手のひらを一度だけ当てる。がたつかない座面は思っていたよりずっとしっかりしていた。
二人で、向かい合って食べる。会話はほとんどない。豆はやわらかく、香草の匂いがした。匙が椀に当たる音だけがときどき食堂に落ちる。暖炉に火はないのに、夕餉の湯気で、机の上だけがあたたかかった。
ミラは、たいして喋らない。ただ、こちらが食べているかどうかを、ときどき目の端で確かめている。半分で手を止めないか、椀を下げに立ち上がらないか。見張るというより、見届けるような目だった。
ミラが椀から目を上げずに言った。
「客のない晩は、二人で食え。祖母が、そう言ってた」
説明も、つづきもなかった。また豆をすくって、食べている。
椀を持つ手が、いつもより下がらない。半分で下げてしまう手が、今夜は動かなかった。湯気が薄くなっても、席を立たない。豆を、最後の一すくいまで食べた。立って食べれば五分で済む夕餉が、座って食べると、同じ豆でもずいぶん長くあたたかかった。
ポポは食堂の隅で丸い。湯気のほうへ、ときどき鼻先を向けている。
窓の外がすっかり暗くなっていた。初夏の夜気が戸の隙間から薄く入ってくる。
机の上に、椀が二つ並んでいる。ミラの椀も、こちらの椀も、どちらも空だった。
ミラが食器を下げに立った。
「明日は、水を多めに汲め」
言い置いて、二つの椀を重ねて奥へ戻っていく。窓の外で、初夏の夜が更けていった。
灯里のまかない日誌より
三十三日目。
豆を、やわらかく煮た。
椀を、最後まで食べた。
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