帳面を閉じる夜
夜更けの厨房で、小さな鍋の水がもう静かに湯気を立てていた。
残り野菜を薄く刻んでいく。人参のかけら・蕪の葉・玉ねぎの端。それを湯のなかへ落として、ことこと薄く伸ばしていった。香草はほんの少しだけ。匙を入れても野菜が底に少し沈むくらいの薄さで、湯気だけがまっすぐ細く立っている。煮立てるのではなく、ただ温めるくらいの火にしておいた。
夕餉の豆の汁は、二口で止まった。今度は具を少なくして出してみる。
味を見て火を止めた。湯のみではなく浅い椀に、少しだけよそう。多くは盛らない。盆に乗せて、客室のほうへ運んでいった。
廊下の奥の灯りは、まだ消えていなかった。帳面をめくる音が、戸の向こうでまだしている。
戸を叩くのではなく、戸の脇に腰を下ろして、声をかけすぎないようにした。急かされて食べるものではない。気が向いたときに、手が伸びればいい。
「よかったら、これだけ」
しばらくして、戸が内側から開いた。行商人が少し戸惑った顔で立っている。
「夜更けに……すみません。まだ、起きてました」
言いながら、男の目はもう盆の湯気のほうへ向いていた。男は開いた帳面を客室内の戸口脇の机に置き、椀を両手で受け取った。薄い湯気が、男の顔のあたりでゆっくりほどけた。
一口、口にする。
一口目のあとも、男は椀を両手で持っていた。
二口、三口。半分ほど飲んだところで、男は椀を片手に持ち替えた。もう片方の手で、机の帳面を閉じる。指はもう何も数えていない。
「……あったかいものを、ちゃんと飲んだのは、いつぶりか」
ひとりごとのように男が言った。それきり、何も足さなかった。枕元の背負子も、今夜は解かれたままだ。
少し下がって、廊下からそれを見ていた。それから、厨房へ戻った。
机の端には、夜のうちに沸かした白湯が置いたままになっている。手はつけていない。客に温かいものを出す手は止まらないのに、机の端の白湯にだけは手が伸びない。
ポポは暖炉のそばで丸い。夜更けの厨房の隅で、背中に火の色だけを受けていた。
夜明け前になった。
古道の側はまだ薄暗い。行商人は約束どおり、早くに発つ支度をしていた。背負子を背負い直すと、荷の重さに肩がいったん下がって、また持ち上がる。
朝の支度を渡した。木漏れ日のパンを、布で包んだものだ。歩きながらでも、立ち止まっても食べられる一つ。昨夜の薄いスープより、少しだけ食べでがある。
「夕べの、飲めました」
包みを受け取りながら、行商人が言った。
「もう少し、足が動きます」
「数を、追いかけすぎてたのかもしれません」
男は少し笑って、背負子の紐を締め直した。それ以上は言わない。市の数は、まだ足りないのだろう。
奥からミラが出てきて、短く言う。
「気をつけて」
「お世話になりました」
行商人が古道のほうへ歩き出す。その足音が、朝の薄明かりのなかへ遠ざかっていった。
客室からスープの椀を下げ、厨房の流しの横に置く。底には、わずかに残っていた。机の端には、手をつけなかった白湯が、まだ残っている。客の椀は空に近くて、こちらの湯のみはそのまま。窓の外には、もう朝の光が差しはじめている。
その日の夕餉のために、また鍋を出した。
灯里のまかない日誌より
三十二日目。
夜更けの、薄いスープ。
お客さま、夜明け前に。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。
リアクションやブックマークも本当にありがたいです。
もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。




