食べられない行商人
夕方の支度に、豆の汁をひと鍋ぶん仕込んでおく。
先日届いた豆をやわらかく煮て、香草を少し落とす。初夏の光が古道のほうへ低く傾いていた。物干しの毛布を取り込んでたたんでいると、古道のほうから音がした。荷のこすれる音と、急いだ足音。客の少ない日の、思いがけない来訪だった。
玄関に出ると、背負子いっぱいに小間物を負った中年の男が立っていた。道で荒れた上着・靴の土・額の汗。息が上がっている。針や糸、小さな鏡や櫛。村から村へ、こまごましたものを運んで売る行商人らしかった。
背負子の小間物は、どれもきちんと布で仕切られて、傷がつかないように収まっている。荷の扱いはていねいなのに、その荷を負う本人の身なりだけが、後回しにされていた。
「一晩……いや、少し休めれば、それで」
言いながら、男の目はもう先の古道のほうを見ている。本当は、このまま押し通りたいのだろう。落ち着かない足が、土間の前で半歩進みかけて止まった。
奥から、ミラが出てきた。男の荷と、暗くなりかけた空をひと目で見る。
「夜の古道はやめとけ。迷うぞ」
「……そうですか。では、ひと晩だけ」
行商人はしぶしぶうなずいた。
食堂に通して、夕餉を出す。豆の汁と、焼き直したパン。湯気がまっすぐ立った。先日リコが届けた豆を、朝から煮ておいたものだ。よく乾いた豆はやわらかく開いて、汁に薄い甘みが出ていた。
けれど行商人は椅子に座らなかった。立ったまま、片手で椀を持つ。もう片方の手には、小さな帳面が開かれている。
「明日の朝には、次の村の市に着かないと。今月は、まだ数が足りないんです」
帳面に目を落として、指で何かを数えている。男の指は、椀の湯気よりも帳面のほうをせわしなく追っている。椀の汁を二口ほど口にして、それきり手が止まる。椀を机の端に置いてしまった。
「すみません。胃が、受けつけないんですよ。ここのところ、ずっと」
悪びれるでもなく、当たり前のように言う。
背負子は足もとに下ろしたままだった。紐はまだ解かれていない。
椀はほとんど残っている。けれど、無理にはすすめなかった。客の目は湯気ではなく帳面のほうへ戻っていく。指がまだ数えている。外はもう暗くなりかけていた。
「無理に、召し上がらなくていいんです」
椀を下げようとはせず、湯気の立つ位置にそっと置いておく。冷めても匂いだけは残るように。すぐに食べられなくても、温かいものがそこにある、とわかるだけでいい。
代わりに、白湯を一杯だけ出した。汁よりも、ただ温かいだけのもの。これなら、と思って。行商人は、それは少しだけ飲んだ。湯のみは両手で持つものだから、そのあいだだけ、帳面から手が離れる。数える指が止まって、ほんの少し、男の肩がさがった。すぐにまた帳面へ戻ってしまったけれど。
その立ち姿に、どこかで見たような気配がよぎった。けれど、それを口にはしなかった。
ポポは食堂の隅で丸い。行商人の落ち着かない足もとを一度だけ見て、また丸くなった。
「明日は、夜明け前には出ます。早くにすみませんが、戸を開けておいてもらえれば」
「はい。お見送りします」
行商人は少し目を見開いた。
夜になった。
客室へ案内する。行商人は背負子を枕元に置いたまま、横になりそうにない。灯りのそばで、帳面に何かを書きつけている気配があった。
食堂から、豆の汁がほとんど残った椀を下げる。厨房の流しの横に置いて、すぐには洗わなかった。冷めかけた汁は、まだ濃い匂いがした。
小さな鍋を出して、水を張った。この人に何が出せるだろう、と考えながら、手のほうが先に動いている。夜更けに客のために鍋を出すのは、もう癖のようになっていた。客室の灯りが消えない夜は、たいてい、こちらの手も止まらない。
廊下を覗くと、客室の戸の下から灯りが漏れていた。帳面をめくる小さな音がときどき聞こえた。
夜が、少しずつ更けていく。鍋の水が、火の上でゆっくり温まりはじめた。
灯里のまかない日誌より
三十一日目。
行商の客が、ひとり。
椀は、ほとんど残った。
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