↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こもれび亭へようこそ 〜異世界宿屋のまかない日誌〜  作者: 山田鰻
第一部 こもれび亭再出発編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/32

食べられない行商人

夕方の支度に、豆の汁をひと鍋ぶん仕込んでおく。


先日届いた豆をやわらかく煮て、香草を少し落とす。初夏の光が古道のほうへ低く傾いていた。物干しの毛布を取り込んでたたんでいると、古道のほうから音がした。荷のこすれる音と、急いだ足音。客の少ない日の、思いがけない来訪だった。


玄関に出ると、背負子いっぱいに小間物を負った中年の男が立っていた。道で荒れた上着・靴の土・額の汗。息が上がっている。針や糸、小さな鏡や櫛。村から村へ、こまごましたものを運んで売る行商人らしかった。


背負子の小間物は、どれもきちんと布で仕切られて、傷がつかないように収まっている。荷の扱いはていねいなのに、その荷を負う本人の身なりだけが、後回しにされていた。


「一晩……いや、少し休めれば、それで」


言いながら、男の目はもう先の古道のほうを見ている。本当は、このまま押し通りたいのだろう。落ち着かない足が、土間の前で半歩進みかけて止まった。


奥から、ミラが出てきた。男の荷と、暗くなりかけた空をひと目で見る。


「夜の古道はやめとけ。迷うぞ」


「……そうですか。では、ひと晩だけ」


行商人はしぶしぶうなずいた。


食堂に通して、夕餉を出す。豆の汁と、焼き直したパン。湯気がまっすぐ立った。先日リコが届けた豆を、朝から煮ておいたものだ。よく乾いた豆はやわらかく開いて、汁に薄い甘みが出ていた。


けれど行商人は椅子に座らなかった。立ったまま、片手で椀を持つ。もう片方の手には、小さな帳面が開かれている。


「明日の朝には、次の村の市に着かないと。今月は、まだ数が足りないんです」


帳面に目を落として、指で何かを数えている。男の指は、椀の湯気よりも帳面のほうをせわしなく追っている。椀の汁を二口ほど口にして、それきり手が止まる。椀を机の端に置いてしまった。


「すみません。胃が、受けつけないんですよ。ここのところ、ずっと」


悪びれるでもなく、当たり前のように言う。


背負子は足もとに下ろしたままだった。紐はまだ解かれていない。


椀はほとんど残っている。けれど、無理にはすすめなかった。客の目は湯気ではなく帳面のほうへ戻っていく。指がまだ数えている。外はもう暗くなりかけていた。


「無理に、召し上がらなくていいんです」


椀を下げようとはせず、湯気の立つ位置にそっと置いておく。冷めても匂いだけは残るように。すぐに食べられなくても、温かいものがそこにある、とわかるだけでいい。


代わりに、白湯を一杯だけ出した。汁よりも、ただ温かいだけのもの。これなら、と思って。行商人は、それは少しだけ飲んだ。湯のみは両手で持つものだから、そのあいだだけ、帳面から手が離れる。数える指が止まって、ほんの少し、男の肩がさがった。すぐにまた帳面へ戻ってしまったけれど。


その立ち姿に、どこかで見たような気配がよぎった。けれど、それを口にはしなかった。


ポポは食堂の隅で丸い。行商人の落ち着かない足もとを一度だけ見て、また丸くなった。


「明日は、夜明け前には出ます。早くにすみませんが、戸を開けておいてもらえれば」


「はい。お見送りします」


行商人は少し目を見開いた。


夜になった。


客室へ案内する。行商人は背負子を枕元に置いたまま、横になりそうにない。灯りのそばで、帳面に何かを書きつけている気配があった。


食堂から、豆の汁がほとんど残った椀を下げる。厨房の流しの横に置いて、すぐには洗わなかった。冷めかけた汁は、まだ濃い匂いがした。


小さな鍋を出して、水を張った。この人に何が出せるだろう、と考えながら、手のほうが先に動いている。夜更けに客のために鍋を出すのは、もう癖のようになっていた。客室の灯りが消えない夜は、たいてい、こちらの手も止まらない。


廊下を覗くと、客室の戸の下から灯りが漏れていた。帳面をめくる小さな音がときどき聞こえた。


夜が、少しずつ更けていく。鍋の水が、火の上でゆっくり温まりはじめた。


灯里のまかない日誌より

三十一日目。

行商の客が、ひとり。

椀は、ほとんど残った。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。

リアクションやブックマークも本当にありがたいです。


もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。