月の夜と、二人の白湯
食堂の窓を開けたミラが、夕餉の汁を食べていた。ゆうべまでの湿りが抜けた風が、卓の上を通っていく。
夜の鍋を片づけて、布巾をかける。灯りを一つ落としても、手元はまだ見えるくらいだった。
空がすっかり晴れている。月が高く出て、明るい。厨房の土間にも、棚の段にも、月の光が薄く差し込んでいる。
昨日の夕方に折った草は、枕元ではなく客室の窓辺に置いたままだ。
今夜は、泊まる客もいない。片づけは早く終わった。最後の湯のみを棚に戻したとき、裏口のほうから夜気がひとすじ流れてきた。
裏口を開けて外を見る。畑の隅で、ネムが乾いた束の一つに手を触れていた。
夜の畑は青く沈んで、そのなかでネムの輪郭だけがやわらかく浮かんでいた。月の光が髪の端のあたりで弱く返るように見えた。
近づくと、薬草の薄い匂いがした。乾いた束のいくつかは、もう紐から外して籠に移してある。
「ネムさん。こんな時間に」
「灯里さま。月が、よく出ております」
ネムが束を一つ、籠の縁へ立てかけた。
「夜のうちのほうが、乾きのぐあいがよく見えますので」
乾いた束を一つ、ネムが籠に移す。隣で、外しかけの束を一つ、紐から外すのを手伝った。結び目は、もう迷わずにほどけた。残りはまた棚に掛け直して、布をかけておく。ネムと二人で裏口から中へ戻った。
「白湯を、すぐに」
「ありがとうございます」
廊下のほうから、ミラの足音がした。寝支度を済ませた様子で、食堂をひとつ覗く。
「もう休む」
「はい。お疲れさまでした」
ミラはネムのほうへ目をやって、それから思い出したように付け足した。
「……近いうち、豆の配達が来る。受け取っておけ」
「わかりました」
ミラの足音が、階段の奥へ消えていった。
厨房に戻って、小鍋に水を張る。火にかけて、湯気が真っ直ぐ立つ手前で火を弱めた。
棚から湯のみを下ろす。一つ。それから、もう一つ。
一つに湯を注ぐ。鍋を戻しかけた手が、二つ目の湯のみの上で止まった。少し遅れて、そこにも湯を注いだ。湯・湯のみ・盆。並べたものをそのまま食堂へ運ぶ。一つはネムの前に置いて、もう一つは、机の端に置いた。
ネムには、蜂蜜も薬草も入れない、ただの白湯を出した。客に出す蜂蜜白湯とは、違う。夜の白湯だった。
ポポは食堂の隅で丸い。月の差すところだけ、背中が少し白く見えた。
ネムの向かいに座る。月明かりが机の上に薄く落ちていた。会話は少ない。ネムは湯のみを両手で持って、ゆっくり口をつける。
白湯を飲む音だけが、静かな食堂に小さく落ちた。外では、夜の森が静かだった。
しばらくして、ネムが机の端に目を留めた。もう一つの湯のみ。湯気が細く立っている。
「もう一つは、どなたに」
「……いえ。なんとなく、二つ」
ネムは、それ以上は聞かなかった。湯のみを置いて、窓の外の月を見る。それから、宿のほうへゆっくり視線を戻した。
「眠ってもいい、と思える夜は、ここにありますね」
客室のほうを、一度だけ見た。今夜は客はいない。机の端の湯のみには、手を伸ばさなかった。
「……そうだと、いいですね」
ネムは小さくうなずいただけだった。それ以上は、何も言わない。月明かりが、二つの湯のみのあいだに落ちている。
机の端の白湯を一口だけ飲んで、そのままにした。指先に残った温度だけが、しばらく消えなかった。
ネムが立ち上がって、籠を腕にかけた。その指先は、先日の朝に乾燥棚で見たときよりもずっと軽そうだった。
籠を提げたまま、ネムが玄関のほうへ歩く。
玄関の戸を開ける。月明かりは古道の側まで届いていた。土の上に、木の影が細く伸びている。
「お気をつけて」
「お招きいただければ、また」
ネムが月明かりの古道へ歩き出す。足音は静かだった。月のなかに、しばらく背中が見えて、それから森のへりに紛れていった。
戸を閉める。古道の側はもう静かで、ネムの足音も聞こえない。
食堂に戻る。机の端の二つ目の白湯は、もう湯気を立てていない。月明かりだけが、湯のみの縁に薄く残っていた。
玄関の脇に、空いた籠をひとつ出しておく。豆を受け取るための籠だった。戸の外では、夜明け前の風が吹いていた。
灯里のまかない日誌より
二十九日目。
月が明るい。
白湯を、二つ。
ネムさんと、月の下で。
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