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こもれび亭へようこそ 〜異世界宿屋のまかない日誌〜  作者: 山田鰻
第一部 こもれび亭再出発編

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24/33

雨の予感と眠り草

翌日の空は、午後からずっと重かった。


夕方になっても明るくならない。雲が低い。風はやんで、空気だけが湿っている。物干し場へ出ると、毛布が竿に張りついたまま動かなかった。風が一日中なかったせいだ。いつもより早めに取り込む。毛布には雨の前のひんやりした湿りが移っていた。腕に抱えると、晴れた日よりも重い。


古道のほうの森がいつもより濃く匂った。土・若葉・雨の匂い。けれど、まだ降らない。空のどこにも雨粒の音はなかった。


厨房に戻って、薪に布をかけておく。湿気を吸うと薪は鈍る。火のつきが悪くなる前に、乾いたものを内側へ寄せておいた。


乾燥棚の薬草も取り込もうと畑へ出ると、ネムが先に来ていた。


夕方の薄暗さのなかで、乾燥棚から薬草の束を外している。手早い。雨の近い空を背中で測っているような動きだった。


「灯里さま。雨が来る前に、乾いたものだけ、取り込んでおきましょう」


「わざわざ、夕方に」


「雨の前は、森のほうが落ち着きません。それに……」


ネムが籠から別の束を取り出した。細い茎に、淡い色の小さな花がついている。


「雨の前は、眠りが浅くなる夜があります。これを、少し」


乾いた束を二人で外していく。ネムが外す向きにそろえて、こちらは籠へ移す。湿った束は棚に残して、布をかけ直しておいた。雨に当てなければまた乾く。


ネムと厨房へ入った。ネムは鍋ではなく小皿を引き寄せる。机の上に、細い茎と淡い花の束を置いた。


「これは、眠り草でございます」


乾いた茎を一本だけ折って、小皿の端に置く。折ると淡い香りが立った。火にはかけない。


「枕のそばに、一本だけ。香りが、夜の入口に薄く立つくらいで十分です。眠らせる草では、ございません」


眠り草・乾いた茎・淡い花。机の上のそれを見ながら、扱いを覚えていく。茎の折り方も、置く場所も、難しくはない。難しいのは、たぶん量のほうだった。多ければいい、というものではないらしい。


「強く効かせようとすると、草のほうが、夜を決めてしまいます」


蜂蜜白湯を淹れた夜も、薬草はふた葉だけだった。


折った茎を、小皿のまま戸棚の手前に寄せる。香りは近づかないとわからないくらい薄い。


ミラが雨の支度を終えて厨房へ来た。机の上の眠り草を見る。


「眠り草か」


「雨の前ですから」


「客はいない」


「宿のために、置いていきます。眠りの浅くなる夜は、住む人にもありますから」


ミラが少し黙った。


「……置いていけ」


ネムは眠り草を、机の端に二束だけ残した。


ポポは椅子の背で眠り草に背を向けたまま、目も開けなかった。


ネムが森へ戻る支度をする。薬草籠を持ち替える指先は、昨日の朝ほど眠そうではない。けれど、森へ戻る足音にはまだ土を踏む重さがあった。


「雨は、夜まで持つかもしれません。降らずに、雲が切れることも」


「降らないと、いいですが」


「降っても、降らなくても、眠れる夜になりますように」


ネムが霧明の森のほうへ戻っていった。薄暗い古道の側に、その背中がしばらく見えて、それから消えた。


机の端の眠り草を、客用の客室へ持っていく。一本ずつ折って、枕のそばに置いた。客はいない。それでも、空いた部屋の枕のそばに。香りが、戸を開けるたびに薄く立った。部屋の空気が、ほんの少しだけやわらかくなる気がする。


戻りがけ、いつも寝起きしている客室の前で手が止まった。


残った一本が、まだ手のなかにある。戸口で、しばらくそれを持っていた。


手のなかで、ひとつ折ってみる。折り口から、ひやりと青い匂いが立った。


客室の枕には、どれも一本ずつ置いてきた。それなのに、この部屋の枕のそばにだけは、置かなかった。窓辺に、少し離して置いて、戸を閉めた。


夜になった。


夕餉の火は、内側へ寄せておいた乾いた薪から熾した。湿った夜でも、火はすぐに回った。昼の汁を温め直して、パンを焼き直す。


二人で汁とパンを食べた。椀を置いたミラが、窓のほうを一度見た。


「降らんな」


「降らないかもしれない、とネムさんも言っていました」


雨は、結局降らなかった。あれだけ匂っていたのに、空はとうとう一粒も落とさなかった。


厨房の片づけを終えて、窓から外を見る。重かった雲が少しずつ切れはじめていた。切れ間から、細い月の光が落ちてくる。森のへりがわずかに白んで見えた。


客室の枕元と、窓辺の眠り草を、もう一度見てまわる。どの部屋も、香りはかすかだった。置いた草に顔を寄せて、やっとわかる。


窓辺の眠り草が、夜の風に薄く香った。


雲の切れ間から、月が、少しずつ出はじめていた。


灯里のまかない日誌より

二十八日目。

雨の匂い。降らなかった。

眠り草、枕のそばに一本。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。

リアクションやブックマークも本当にありがたいです。


もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。

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