雨の予感と眠り草
翌日の空は、午後からずっと重かった。
夕方になっても明るくならない。雲が低い。風はやんで、空気だけが湿っている。物干し場へ出ると、毛布が竿に張りついたまま動かなかった。風が一日中なかったせいだ。いつもより早めに取り込む。毛布には雨の前のひんやりした湿りが移っていた。腕に抱えると、晴れた日よりも重い。
古道のほうの森がいつもより濃く匂った。土・若葉・雨の匂い。けれど、まだ降らない。空のどこにも雨粒の音はなかった。
厨房に戻って、薪に布をかけておく。湿気を吸うと薪は鈍る。火のつきが悪くなる前に、乾いたものを内側へ寄せておいた。
乾燥棚の薬草も取り込もうと畑へ出ると、ネムが先に来ていた。
夕方の薄暗さのなかで、乾燥棚から薬草の束を外している。手早い。雨の近い空を背中で測っているような動きだった。
「灯里さま。雨が来る前に、乾いたものだけ、取り込んでおきましょう」
「わざわざ、夕方に」
「雨の前は、森のほうが落ち着きません。それに……」
ネムが籠から別の束を取り出した。細い茎に、淡い色の小さな花がついている。
「雨の前は、眠りが浅くなる夜があります。これを、少し」
乾いた束を二人で外していく。ネムが外す向きにそろえて、こちらは籠へ移す。湿った束は棚に残して、布をかけ直しておいた。雨に当てなければまた乾く。
ネムと厨房へ入った。ネムは鍋ではなく小皿を引き寄せる。机の上に、細い茎と淡い花の束を置いた。
「これは、眠り草でございます」
乾いた茎を一本だけ折って、小皿の端に置く。折ると淡い香りが立った。火にはかけない。
「枕のそばに、一本だけ。香りが、夜の入口に薄く立つくらいで十分です。眠らせる草では、ございません」
眠り草・乾いた茎・淡い花。机の上のそれを見ながら、扱いを覚えていく。茎の折り方も、置く場所も、難しくはない。難しいのは、たぶん量のほうだった。多ければいい、というものではないらしい。
「強く効かせようとすると、草のほうが、夜を決めてしまいます」
蜂蜜白湯を淹れた夜も、薬草はふた葉だけだった。
折った茎を、小皿のまま戸棚の手前に寄せる。香りは近づかないとわからないくらい薄い。
ミラが雨の支度を終えて厨房へ来た。机の上の眠り草を見る。
「眠り草か」
「雨の前ですから」
「客はいない」
「宿のために、置いていきます。眠りの浅くなる夜は、住む人にもありますから」
ミラが少し黙った。
「……置いていけ」
ネムは眠り草を、机の端に二束だけ残した。
ポポは椅子の背で眠り草に背を向けたまま、目も開けなかった。
ネムが森へ戻る支度をする。薬草籠を持ち替える指先は、昨日の朝ほど眠そうではない。けれど、森へ戻る足音にはまだ土を踏む重さがあった。
「雨は、夜まで持つかもしれません。降らずに、雲が切れることも」
「降らないと、いいですが」
「降っても、降らなくても、眠れる夜になりますように」
ネムが霧明の森のほうへ戻っていった。薄暗い古道の側に、その背中がしばらく見えて、それから消えた。
机の端の眠り草を、客用の客室へ持っていく。一本ずつ折って、枕のそばに置いた。客はいない。それでも、空いた部屋の枕のそばに。香りが、戸を開けるたびに薄く立った。部屋の空気が、ほんの少しだけやわらかくなる気がする。
戻りがけ、いつも寝起きしている客室の前で手が止まった。
残った一本が、まだ手のなかにある。戸口で、しばらくそれを持っていた。
手のなかで、ひとつ折ってみる。折り口から、ひやりと青い匂いが立った。
客室の枕には、どれも一本ずつ置いてきた。それなのに、この部屋の枕のそばにだけは、置かなかった。窓辺に、少し離して置いて、戸を閉めた。
夜になった。
夕餉の火は、内側へ寄せておいた乾いた薪から熾した。湿った夜でも、火はすぐに回った。昼の汁を温め直して、パンを焼き直す。
二人で汁とパンを食べた。椀を置いたミラが、窓のほうを一度見た。
「降らんな」
「降らないかもしれない、とネムさんも言っていました」
雨は、結局降らなかった。あれだけ匂っていたのに、空はとうとう一粒も落とさなかった。
厨房の片づけを終えて、窓から外を見る。重かった雲が少しずつ切れはじめていた。切れ間から、細い月の光が落ちてくる。森のへりがわずかに白んで見えた。
客室の枕元と、窓辺の眠り草を、もう一度見てまわる。どの部屋も、香りはかすかだった。置いた草に顔を寄せて、やっとわかる。
窓辺の眠り草が、夜の風に薄く香った。
雲の切れ間から、月が、少しずつ出はじめていた。
灯里のまかない日誌より
二十八日目。
雨の匂い。降らなかった。
眠り草、枕のそばに一本。
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