森から来た薬草師
月明かりに混じる足音が、戸の外で止まった。
机の端の湯のみから視線を上げて、玄関に近づく。鈴は鳴らなかった。代わりに、戸の外の静けさが、ひとつだけ深くなった。
戸を開けると、月明かりが先に差し込んできた。
戸の前に、長い髪の女性が立っている。髪は月の色をしていた。淡い銀のなかに、白に近い薄紫が混ざっている。腕に浅い籠を提げて、外套の襟元には夜の冷気がまとわりついていた。薬草の香りが夜気の中にかすかに混じる。
「いらっしゃいませ」
「夜分にすみません。ミラさまから、お話を伺いまして」
声は静かで、丁寧だった。
女性を中に通して、玄関の戸を閉める。土間の小棚の前で、女性は籠を一度下ろした。中には、乾いた香草・色のついた小瓶・薄紙に包まれた塊。三つを、一つずつ並べていく。
「こちらへどうぞ。お湯を、すぐに」
「ありがとうございます。ネムと申します。森のほうから参りました」
「白瀬灯里です。ミラ……ミラさんは、まだ戻っていなくて」
「わたくしは近道を通って参りました」
「これは……」
「夜の湯に、少しだけ落とすものでございます」
ネムは並べたものを籠へ戻して、腕に提げ直した。
ネムを厨房に通した。
小鍋に水を張って、火にかける。火加減はいつもの夜の白湯と同じだった。ネムは厨房の入口に立って、しばらく火の前を見ていた。
「蜂蜜を、ひとさじだけ。薬草は、ふた葉だけ」
「ふた葉」
ネムが小瓶の蓋を開けて、淡い色の薬草を二枚取り出した。二枚目を置いたところで、瓶の蓋を静かに閉める。湯のみは棚から下ろした。蜂蜜・薬草・湯のみが机の上に並んだ。
湯が沸きはじめる。こちらを一度だけ見て、湯気が真っ直ぐ立つ手前で、小さく目で合図した。
火を弱める。湯のみに蜂蜜をひとさじ、薬草の葉を二枚入れてから、湯を少しずつ注いだ。蜂蜜は湯の温度でほどけていく。薬草の葉が湯の中でゆっくり色を出した。
最後に、ネムが小袋から別の香草の葉を一枚だけ取り出し、湯のみにそっと浮かべた。
「香草を、一枚だけ。これで、夜の入口に薄く立つ香りになります」
ポポは食卓の下にいた。香がそっと流れたときだけ薄く目を開け、鼻先を前足へ埋めた。
湯のみを盆に乗せて、客室の戸の脇まで運ぶ。
ネムは盆を持たず、薬草を入れた小袋だけを手に下げて、廊下を音もなく歩いた。
戸の脇に並んで座る。
「……白湯、新しいのに替えました。蜂蜜の入った、薬草の」
戸の向こうから、低い声がした。
「ありがとうございます」
戸の脇の盆の上に、新しい湯のみを置く。香りが戸の隙間からそっと中へ流れていった。
「お飲みになるかどうかは、お客さまにお任せしましょう」
「はい」
短い沈黙があった。
「眠りは、奪うものでも、押しつけるものでもございません。お客さまの夜の縁に、そっと座らせていただくだけです」
「……はい」
玄関のほうから、ミラが戻ってくる足音がした。外套の肩に、夜の湿りが残っている。歩幅だけがいつもより少し早かった。
「来てくれたか」
「ミラさま。お久しゅうございます」
「客は」
「布団のなかに、いらっしゃいます」
「夜更けに、すまなかった」
「夜の森は、わたくしの庭のようなものでございます」
ミラはそれだけ短く受け止めて、廊下の反対側の隅に座った。客室の戸を挟んで、こちら側に二人、反対側にミラがいた。
ほどなく、戸が細く開いた。盆の上の湯のみが、内側へ引かれていく。戸は、すぐにまた閉まった。
戸の向こうで、湯のみの音がした。陶器が薄く小さく鳴る音だった。
ネムがこちらに小さく目を伏せて、合図のような動作だけをした。
「……飲んでくださった」
「お客さまが、ご自分で手を伸ばしてくださいました」
それからしばらくして、戸の向こうで、もう一度だけ布の音がした。前より小さい音だった。
ネムが、客室の戸のほうへ、ほんの少しだけ顔を傾けた。それ以上のことは言わない。
ミラは、廊下の奥で目を閉じている。姿勢だけが、少し緩んでいた。
外套の肩は、夜の湿りを吸ったままだった。
「ネムさんの分も、温めましょうか」
小声で尋ねると、ネムは客室の戸から目を離さずに小さく首を振った。
厨房へ戻って、鍋の汁を小鍋に移して温めた。椀に一杯よそってミラの脇に置く。目を開けたミラが椀を取り、黙って汁を飲んだ。
盆の上には、もう湯のみがない。蜂蜜のかすかな匂いだけが戸の隙間からまだ流れている。
月の光が廊下の窓から、少しずつ位置を変えていった。
夜がゆっくり明けはじめる。
月の光が引いて、代わりに古道の側がぼんやり白くなってきた。
ネムが籠を腕に提げて、玄関に立った。
「お客さまが、朝にお目覚めになりましたら、温かいものを少し。蜂蜜はもうひとさじ、薬草はふた葉、置いてまいります」
「ありがとうございました。明るくなる前に、お帰りでしょうか」
「夜は、わたくしの時間でございますから」
「またお越しください」
「お招きいただければ、わたくし、参ります」
ネムは、玄関先に月明かりが残っているうちに、古道のほうへ歩き出した。足音は来たときと同じように静かだった。
玄関の戸を閉めずに、しばらく立っていた。
ネムの足音が、古道の側で、夜の終わりに溶けた。
厨房の机の端に、半分残った白湯の湯のみがまだあった。
灯里のまかない日誌より
二十五日目の夜更けから、二十六日目の朝の前まで。
蜂蜜白湯、ひとさじ。
森から、ネムさん。
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