風のあとの来客
灯里のまかない日誌より
二十五日目。
朝粥、一杯多め。
玄関の灯りは、消えなかった。
朝、風はやみかけていた。
古道の側の木々はまだ薄く揺れている。けれど夜のあいだの強さはもう抜けて、乾いた音だけが空気に残っていた。玄関の灯りは揺れたまま今朝も同じ位置にともっている。夜のあいだずっと消えなかった。
厨房に戻ると、昨夜のうちに一杯ぶん多めに量っておいた朝粥がちょうどよく湯気を立てていた。
その湯気が立っているとき、玄関の鈴が鳴った。
出ると、中年の女性が立っていた。荷物は少ない。古道を歩いてきたらしく、外套の肩に薄く土が乗っている。袖口はいくらかすり切れていた。顔色は街道を長く歩いてきた人のものだった。
「すみません。一晩、泊めていただけますか」
「いらっしゃいませ。お入りください」
奥から、ミラが短く確認する。
「客室、用意してある」
「はい」
客の足が、土間でほんの少し迷った。
客を、廊下の奥の客室まで案内する。
廊下では片手が手すりに触れ、離れるまでに一拍かかった。客室に入ると、戸口と窓を一度ずつ確かめてから荷を下ろした。
廊下の隅、予備寝具棚を見た。並んでいた寝具の幅が一組ぶん空いている。戸の脇に置いてあった寝具を中へ運び入れて整えた。
「ありがとうございます」
声に張りがなかった。
「ゆっくり休ませていただきます」
「はい。何かありましたら、奥にお声かけください」
客は昼の少し前に、ゆっくり起きてきた。
食堂の隅の席に座ると、朝粥を出す。朝に多めに炊いたぶんが、ちょうど一杯ぶん残っていた。香草と塩を、少しだけ添える。
客は匙を二口ほど運んで、止めた。椀の湯気が先に薄くなっていく。無理にすすめない。言葉も足さない。
ポポは食堂の隅で丸い。湯気のそばで、目だけを半分閉じていた。
客が匙を手から離して、両手で椀の縁にそっと触れた。指は椀の縁から離れなかった。
しばらくして、客がぽつりと言葉を置いた。
「あの人がいなくなって、もうすぐ三月になります」
「……そうですか」
「そろそろ、ちゃんと寝ようと思って、出てきたんです」
「はい」
厨房から、ミラが顔だけ出して、短く差し入れる。
「夜、また食べるか」
「いえ、それは……」
「いいから、用意しておく」
ミラは客の答えを待たずに、厨房へ戻った。
残った椀を盆に戻す。
夕方、ゆうべの汁の鍋をもう一度火にかけた。よそう前に、ミラが客の椀に入れるぶんの根菜をまな板へ取って、小さく刻む。厚く切ってあったものが、匙に乗る大きさになった。
食堂の隅の席へ運ぶと、客は両手で椀を受け取った。ひと口だけ汁を飲んで、椀を卓に戻す。
「すみません。せっかく、用意していただいたのに」
「いい」
厨房の戸口から、それだけ返ってきた。
夜になった。
客は客室で休もうとしていた。戸の下の隙間から、灯りがまだ細く漏れていた。
厨房に立って、湯を沸かす。客用の白湯を、一杯ぶん。火の前に立って、湯気が真っ直ぐ立つのを見届けたあと、火を弱めた。
ミラが食堂を覗いた。
「森の薬草師に、使いを出すか」
「お願いします」
ミラは肩に外套を引っかけて、古道のほうへ出ていった。どこをどう回るのかは聞かない。玄関の戸を閉める音が、ひとつ、夜のなかに残った。
白湯を運んで、客室の戸の脇に座る。客の眠りを、ただ待つ。
廊下は静かだった。古道のほうから、もう風は吹いていない。代わりに、夜のすずしさが戸の隙間からそっと入ってきた。
しばらくして、布団のなかから低い声がした。
「眠れないんです、ずっと」
「はい」
「……白湯、置いておきます」
「ありがとうございます」
夜更けになった。
廊下の隅に座ったまま、客室の戸を見ている。客室から、わずかな寝返りの音が、一度だけ聞こえた。布団の端が動いた音はそれきり止まった。
しばらくしてから、戸の脇に置いた白湯を下げにいった。
湯のみは、半分だけ飲まれていた。
厨房に戻って、湯のみを机の端に置いた。
玄関のほうの気配を、しばらく聞いていた。月が高くなったらしく、窓の外の影は少しだけ位置を変えていた。
玄関の外で、月明かりに混じって、ゆっくり近づいてくる足音がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。
リアクションやブックマークも本当にありがたいです。
もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。




