半分残した白湯
灯里のまかない日誌より
二十三日目。
客なし。
湯のみを、棚に戻した。
夕方の鍋を、少し早めに洗いはじめた。
今日は朝から誰も来なかった。古道の側の戸は一度も鈴を鳴らさない。昼の支度も夜の支度も二人ぶんで足りてしまう。
夜の膳は、その二人ぶんだけ整えた。畑の菜を刻んで、豆と一緒に薄く煮る。客がいないぶん、味は二人の好きにできる。ミラは塩が少し強めのほうが好きで、その日は言われる前に強めにした。
向かい合って食べる。ミラは黙って椀を空け、二杯目をよそった。ポポは食卓の端で二人ぶんの湯気を行き来している。客がいてもいなくても、ポポのいる場所は変わらない。
「泊まりは、しばらく無いな」
ミラの声に、心配の色はない。ただ、数えているだけの声だった。
「市の日には、人も増えます。リコさんも、寄るころです」
「ああ」
短いやりとりだった。客のいない日の膳は静かで、鍋の底も浅くしか汚れない。それでも、二人ぶんの湯気はちゃんと立っていた。
洗う湯のみも、ゆうべの旅人が机に残していった一つだけだった。底に細く残っていた香草の残り香を、湯と少しの塩で洗い流して、伏せて棚の段に戻す。同じ形の湯のみが、棚の段に並んでいる。数えると、ちょうど元の数にそろった。
布巾を絞って、竈の縁を拭く。窓の外の光が畑のほうへ傾いていく。
厨房の片づけが、いつもより早く終わってしまった。手は次の仕事を探したけれど、もう今日のぶんは残っていない。棚を拭き、乾いた布をたたみ直し、それでもまだ時間が余る。棚の上の段には、リコが買ってきた干し豆の袋が、まだ口を開けずにしまってある。客のいない日は、こんなにも手が空く。意味もなく前掛けの結び目を直す。指先を、どこへ置いておけばいいのか、よくわからなかった。
日が落ちきる前、ミラが食堂を覗いた。
「もう休む」
「お疲れさまでした」
ミラは少しだけこちらを見て、それから背を向けた。足音が階段の奥へ消えていく。
ふだんは、これで寝支度に入る。客のいない日は夜も早い。
食堂の暖炉の火を落とし、灯りを一つにする。広い食堂が夜の顔になっていく。ミラの足音はもう聞こえない。食堂に、一人だけになった。
寝支度をすればいい。わかっているのに、足は寝室のほうへ向かなかった。厨房に戻る。鍋は片づいているのに、火の前にもう一度立った。
小さな鍋に水を張って、火にかける。火の前に立つ距離も手順も、客に出す湯のときとほとんど変わらない。けれど、さっき伏せたものの隣から、同じ形を一つだけ下ろした。水・小さな鍋・湯のみ。並べたものは、それだけ。
湯が沸きはじめる。鍋の底から細かい音が立って、湯気がうっすらと上がってくる。真っ直ぐ立つ手前で火を止めた。客に出すときと同じ止めかただった。
ポポは食堂の暖炉の前で、丸さをほどかない。火を落としても、その場所だけまだ暖かいのかもしれない。
湯のみに湯を一杯ぶん注ぐ。それを持って厨房の椅子に座った。両手で持つと、手のひらにちょうどいい熱が伝わってくる。
一口飲む。
二口飲む。
三口で、止めた。
白湯は、ただ温かいだけの味がした。甘くも苦くもない。喉を通って、胸のあたりに温かさが少しだけ残る。
半分残った白湯を、机の端に置く。さっき洗って戻した湯のみと、同じ形だった。
椅子の背にもたれる。背中がいつもよりわずかに重い。座ってはじめて出てくる重さだった。
あとで飲めばいい、と思った。
たぶん、飲まない。
一度だけ、湯のみのほうへ手が伸びかけて、途中で止まった。そのまま、膝の上に戻す。
しばらく、湯のみの細い湯気を見ていた。湯気はだんだん細くなって消えていく。
客室に戻って、日誌を開いた。
いつもなら、その日に作ったものと、誰かのことを書く。今日は、客がなかったことと湯のみを戻したことしか書けなかった。ペンの先を、何度か紙の上で止める。
二十三日目の欄の余白に、「半分」とだけ書き足して、ペンを置く。書こうとしていた言葉は、もう出てこなかった。
日誌を閉じて、厨房に戻る。
机の端の白湯は、もう湯気を立てていない。
窓の外で、風が一筋、玄関の灯りを揺らした。
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