雫村の鈴と古道の道標
灯里のまかない日誌より
十八日目。
香草茶、リコさんと。
道標は、九つあるらしい。
「灯里さん、古道の道標、いくつあるか知ってますか」
あれから二、三日後の朝、リコが配達のついでにまた立ち寄った。今度は道標の話だった。
「いえ、数えたことがなくて」
「九つです。今日、雫村からここまで、全部かぞえてきたんです」
リコは少し誇らしげに配達鞄を肩から下ろした。
「道標を数えるようにしたら、迷わなくなりました。石とか根っこは、雨が降ると見えなくなるけど、道標は動かないので」
朝の残りの粥を温め、炙ったパンを添えて出した。配達の途中だからと一杯だけ、それでもリコは汁の最後まで匙ですくって食べた。
香草茶を淹れているあいだ、鞄のなかからいくつかの預かりものを出して見せてくれた。
手紙の束・布で包んだ干し香草・小瓶ふたつ・木札に書かれた覚書。
それを、迷わず別々の順に卓へ並べた。
「これ、雫村のおばあさんから預かったんです。手紙は宿の三軒先のおじさんへ、香草はミラさんに、小瓶は、その先の谷の家へ。木札は、私が次に覚えるべき仕事のことを書いてもらいました」
ひとつずつ行き先が違う。リコの指がそれぞれの場所を順に押さえていく。このあいだ道に迷った子と同じとは思えないくらい、預かりものの行き先だけは、よどみなく出てくる。道に迷うのと、預かりものを間違えないのは、リコのなかでは別の引き出しにしまってあるようだ。
「木札には、なんて書いてあるんですか」
「『古道の道標、ぜんぶ言えるように』。……もう、言えます」
少し胸を張った。
「雫村の市は、だいたい五日に一度です。次は明後日。その日はミラさんも、たぶん買いに行きます」
リコは「これ、ミラさんに」と香草の小袋を取って、裏手の畑へ向かった。香草茶の火を落として、そのあとに続く。ミラは畑の隅で別の香草を干していて、受け取った小袋を軽く嗅ぐ。
「雫村の香草か。いいやつだ」
「私、香草は嗅ぎ分けられないんですけど、おばあさんが、いつも丁寧に乾かしてくれるんです」
畑の隅の乾燥棚にふと目がいった。これまでも何度か目に入っていた、誰のものかわからない小さな棚だ。
「ミラさん。前から気になっていたんですが、この乾燥棚は、どなたの……?」
「ああ。森の薬草師のだ」
リコは横で小さく頷いただけだった。
「今は使っていない。布だけ替えておけ」
乾燥棚の主の名は、まだ知らない。それ以上は聞かず、棚にもう一度そっと布をかけた。
物干し場のほうへ戻りかけて、リコがふと立ち止まる。
「次は明後日、雫村の市です。灯里さんもいつか、来てみてくださいね」
「はい。いつか、必ず」
市の話から、リコは雫村を訪れる人の話へ移った。
「春と秋に、雫村へ来る人がいるんです。ハルって名前で」
ミラは香草を持ち上げる手を止めずに、短く言った。
「本人が来たらでいい」
その名前だけ、覚えておくことにした。
リコは配達鞄を背負い直して、玄関の灯りの下を抜けていく。腰の鈴が小さく鳴った。
玄関を閉めて、食堂に戻る。ポポが暖炉の前で丸くなっている。
ミラが帳場で、明後日の市に持っていく銭と、買うものを紙の切れ端に書きつけていた。米・塩・斧の刃の替え。指で数えながら、ひとつずつ。
「何か、要るものはあるか」
少し考えて、香草を干す布が古びていることを伝えた。ミラは切れ端の端に「布」と書き足す。まかないのことで宿の買い物に口を出す日が来るとは、この宿へ来たときには思っていなかった。
知らない名前が、ここへ来てから少しずつ増えていく。会ったことのない人たちの暮らしが、この宿のまわりにいくつもあるのだと、あらためて思った。
畑の乾燥棚にかけ直した布が、外で風に少しだけ揺れているのが、窓越しに見えた。
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