小鹿とて いつか大鹿に ータカノリ視点
最近、本社へ行くことが増えてきた。
上司が行けというなら仕方ないが…俺は、本社の空気が嫌いだ。取り繕ったわざとらしい会話、行き場を失い、塗り固った雰囲気…笑うのすら躊躇う。
今日もまた、一つ用事があった。
本社物流部へ立ち寄り、その後、総務課と経理課で用事を済ませる。
本社は、いるだけで息が詰まる… 昼メシは、絶対に離れたところにしよう…何食おうかなと思っていたときだった。
「大林?」
声を掛けられて、振り返ったら 俺の上司の旦那だった。
「来ていたのか。」
俺の上司は、社内婚をした。本社の秘書課の男と。
本社の奴らが、この男の名前を出すだけで顔色が一気に変わると気がついたのは最近だ。
社屋そのままの空気を纏うかの緊張感ある佇まいが、この男を敬遠する理由だろうが…無駄がない受け答えと話の機回しの良さが気に入っている。
何かあれば、情報を流してくれる。頼みがあれば、二つ返事で引き受けてくれる。いい奴だと思う。
嫁が絡むと、嫉妬深いのが玉に傷だが…
「飯、一緒にどうだ?」
男二人で入った定食屋。
混みあった店内にも関わらず、空いているカウンター席ではなく、テーブル席へ通された。
俺とリュウイチは、それぞれ180センチを超えるノッポ同士だ。
気が利くな、この店…お互い非常に狭い思いをせずに済むのは有難い。
「一人の時は、よく来るんだ。」
リュウイチが、俺へメニューを渡しながら言う
「へえ?」
受取ったメニューを目で追いながら、喉に水を流し込んだ。本社は、居るだけで疲れる…冷たい水が颯爽と身体を駆け抜けた。
「ここは、エビチリと麻婆が旨いぞ。」
リュウイチが、おしぼりで手を拭きながら言う。そして、麻婆茄子にするか、豆腐にするかと悩んでいる。
…この店、どれも、脂っこいな。
まあ、定食の中華はそんなもんか。最近、体重が気になる俺には、遠慮したいメニューだ。
ホイコーローだな…手堅くいくか。
注文を済ませると、たわいもない世間話が始まった。
「最近、長い出張が多くて。今朝、大阪から帰ってきた。」
リュウイチが先に言う。本社の情報を知りたがる俺に気を遣っているのか、「関東の諸事情は噂にしか知らない」とぼやいた。
「大した事は起きてないさ」
俺が返すと、
「最近、起きている嫁を見ていない」と、リュウイチが苦笑していた。
なんだよ、誉めて損した。
嫁の探りかよ、はいはい。
リュウイチと俺の上司は、傍目でもいい夫婦だと思う。俺の上司は、キレイになったし、カワイイな…とも思う事が増えた。この男も、ピリピリした空気が和らいで雰囲気が変わった。
「結婚してみてどうなの? 何か変わるもん?」
おしぼりをたたみながら聞く。
すかさずリュウイチがニヤっと笑った
「大林、考え始めたのか?」
「…聞いてみただけ」
そうか、とまた笑うリュウイチは、男の目からみてもイイ顔していると思う… なるほど、それが返事か。
「他人同士が暮らすんだ、何も苦労がないわけじゃない。」
ネクタイを緩める指に光る指輪が いやに目につく。
「同棲するくらいなら、ケジメつけた方がいい。」
俺は 告白と同時に同棲を始めてしまった。
それほど後悔はしていないし、順調なので 問題もない。
「先の話は、しているのか?」
「してない。」
してないんだよねー、同棲だって、あの時はその場の勢いというか、今捕まえなきゃと自然と口が動いていた。
「そっちは、いつぐらいから考え始めたの?」
と言って後悔した。昼間から直球過ぎた。が、リュウイチが「ん?」と聞き直したものの、嫌がりもせず話し出した。
「…最初から考えていた。社内の女に手を出すからには、覚悟して掛かったさ…」
今だから、言えるけどな。と厨房の方を見やるリュウイチは やっぱりいい男の顔をしていた。
そして、俺は 少しだけ胸が痛んだ。
間の悪い空気を崩すように定食がそれぞれ運ばれてきた。
「なんか アブラモノだね」
リュウイチが頼んだものは、麻婆茄子。旨そうで一瞬「そっちにすれば良かったかな」とかも思うが、現場作業から離れて久しい俺は、折角付き合い始めた彼女を前に、なにも肥るものを好んで食べる時期じゃないはずだ。
「嫁がいると、食べさせてくれないからな。」
そうなんだ。やつの嫁を知ってるだけに、俺は思わず笑いがこみ上げる。
「かといって一人で食べると、味気ないだろ? こういう機会は貴重でね。」
ああ、そうだな、それは分かる気がする。
シオリと暮らすようになって、買い出しや下ごしらえ、後片付けが苦でない。むしろ、シオリの帰りが遅くて、一人飯を作り終えて、待ちきれず食べている時が侘びしい。
…ずっとそうだったし、慣れていたはずなのにな… 不思議なもんだ。ふと切り出した。
「この前はなんだったの?」
「蓮根の炒め煮と豆腐のあんかけ。味噌汁は、玉ねぎと油揚げ」
「柏木家は、和食なんだ?」
それも随分、健康志向。
「お前んとこは?」
「豚の角煮。まあ、休みの日に作ったんだけど」
…俺が。
「いいなあ」
リュウイチにとっては、切実らしい。
「本当に食べたくなったら 作るしかないか。」
とかまで言っている。
「外食とかないの?」
「嫁が必ず作ってくれるからな」
…なんだかんだいって、嫁が大好きなリュウイチ。クオリティが相変わらず過ぎる。
食べ終わって一服していると、リュウイチのケータイが鳴った
「真知子?」
早速、嫁(俺の上司)らしい
「へえ? あんまり苛めるなよ?」
話す顔が僅かに緩んで、トゲトゲしさがなりを潜めてる。
「…分かった。また連絡くれ、あまり遅くなるようなら 迎えに行くから…」
同席を躊躇うような、分かりやすい程の夫婦の空気が漂う。
そして、俺はまた少しモヤっとした。
結婚と同棲、何が違うんだ?
「大林」
リュウイチに呼ばれて、俺は顔をあげた。電話を終えたリュウイチがケータイを閉じながら言う。
「たまに恋人時代が懐かしくなるときがある。けど、紙切れ一枚でも繋がってる安心感は、背中が違う。」
ふーん、そういうもんか。
「タクに彼女が出来たらしいな。」
「タク?」
タクといえば、加藤 匠数年前、俺の下で働いていたパートの若い男だ。
仕事もしっかりやるし、話すと面白かった。イイ奴だった。パートのままも勿体ないと思ってたが、自分で就職先を見つけてちゃんと卒業していった。
いまでも、律儀に連絡くれる奴で、同じく気に入っていた俺の上司は、タクが働くソフトウェア会社に小さいシステムを発注して、取引を始めている。
「一年経ったらプロポーズするそうだ。」
へえ、気が早いもんだ、若いな。
「『家族になりたい』んだそうだ。」
「家族ねえ。」
改めて「結婚の定義」を「家族」というキーワードでは、説明出来ない俺だったが、不思議と焦りはなかった。
「まあ、ゆっくり考えるよ」
俺の恋は始まったばかり。「女」が自分のテリトリーにいること自体が久しぶりなのだから。
俺の感覚が、ゆっくり「世間」と同じ感覚にまで溶けて中和したら、その時もう一度考えよう。
「リュウイチと違って、俺、いたいけな『小鹿ちゃん』だし?」
今度こそリュウイチが「よく自分でいうよな?四捨五入で40のオヤジが何言ってるんだよ。」笑っているが、焦らないと決めた。
カッコ悪くても、震えようが、いつかは必ず『自分の考え』が地に足つくはず。
シオリとね。